幸 –YUKI–
ガヤガヤとうるさいくらいの校舎内を、私はただ1人歩いていた。

文化祭2日目。
優奈とは挨拶どころか、目を合わせることも出来ずに、トイレへと駆け込んだ。
時間が経つのを待ってから教室へ戻った。

1回目の釣りゲームの当番を終えて、ただどこに向かうわけでもなくぼんやりと歩く。

朝から今まで愛想笑いを頑張ったせいか、密かに頬が痛むのを感じた。

今日の人の量は凄かった。その為、釣りゲームの売れ行きも昨日の倍はいくように思う。
河村くんも喜ぶだろうなとぼんやり考えていれば、曲がり角のところでふと人が現れた。

「っ!!!」

それを避けることはできずに私はそのままぶつかって、その反動に耐えきれずに尻餅をついてしまった。

鈍い痛みを感じ始めた頃、頭上からすみませんという男の人の声が聞こえて見上げる。

「大丈夫ですか?」

眉を寄せて、手を差し出してくる好青年に、大丈夫ですと伝えて自力で立ち上がって頭を下げる。

「すみませんでした。」

「え?あ、いや!俺の方が悪いので!怪我ないですか?!」

やたらと声のでかい青年はあたふたと手を動かしながらそう口にした。

「大丈夫です。私の方こそすみません…。怪我はないですか…?」

「全然!男ですし!と言うか大丈夫じゃないですよね?保健室とか行かないと!」

また慌て始める男の人に本当に大丈夫だと伝えるが、彼は中々聞き入れてくれなかった。

数分間、大丈夫です、大丈夫じゃないの言い合いが行われ、最後には男の人が折れてくれた。

「じゃあせめて、何か奢らせて下さい。」

「いや…そういうのは…。本当に大丈夫ですので…。あの…お一人ですか?」

こんなやり取りをやっている間に、彼に知り合いがいたら申し訳ないと思った。
それよりも、正直初対面の人と早く離れたかったのが本音だった。

「あ!そうだ!あの、俺、美術の展示を見に行きたくて…場所を探していたところなんです!」

1人で来たかどうかを聞いたのだが、相当美術の展示を見たいのか、より一層声が大きくなっていた。

「俺、どうやら方向音痴で…。全然たどり着かないんですよ…。」

ため息を漏らす彼がなぜか可哀想に思えて、思わず案内しましょうか?と口にしていた。

「良いんですか!ありがとうございます!」

無駄にでかい声に圧倒されながらも、何とか笑って美術室へと足を進めた。

美術室に着けば、彼は何も言わずにスタスタと中へ入って行ってしまった。

挨拶はしなくていいかとその場から離れようとしたとき、ふと脳裏に浮かんだの優奈の顔だった。

『私の絵見つけてね。』

そう言った彼女の笑顔を思い出して胸が苦しくなる。

きっと、彼女のシフトが終わるのはまだのはず。

「少しだけ…。」

そう呟いて、私は美術室へ足を踏み入れた。

ずらりと並ぶ絵に、私は目を見開く。
綺麗だなと思った。

風景の絵、動物の絵、人物の絵、植物の絵。
様々な絵が私を迎え入れてくれて、私はそれを1枚ずつ見つめていく。

名前の書かれていない絵は、誰が描いたのかは分からなかった。
暫く色々な絵を見つめて、私はふと1枚の絵の前で足を止めた。

「これだ…。」

その絵には、1本の木が描かれていた。けれど、ただの木ではない。
四季。
春夏秋冬が、その1本の木に表されていた。
左上には春と思わしき桜と鮮やかな色を持つ蝶が飛んでいる。右上には夏と思わしき緑色の葉とカブトムシ、そしてギラギラと輝く太陽があった。右下には紅葉の葉と銀杏の葉が地面に散りばめられていて、その中でリスが木の実を頬張っている。左下にはキラキラと輝く雪と、その上で楽しそうに走り回る兎がいた。

それらはただの絵ではなかった。
4つの季節がまるでそこにあって。生き物たちが生きているかのように動き回っているように見えた。

「綺麗…。」

「やっぱ凄いな。」

「っ?!」

不意に後ろから聞こえた声に振り返れば、先程の男の人が嬉しそうな笑みを浮かべて立っていた。

「綺麗ですよね。」

そう呟きながら私の横に並んだ男の人に、そうですねと頷く。

「うん。優奈の絵だ。」

「え。」

呟いた彼の言葉に目を見開いてその人を見上げる。
彼はこちらに目を向けると、照れくさそうに笑って、彼女の絵を見に来たんですと口にした。

「…優奈の…彼氏…。」

小さく呟いた私の声に、今度は男の人が目を丸くした。

「え?…あ!もしかして幸乃さん?」

自分の名前を口にされ、驚きつつもそうですと答える。

「あ!俺、長月優奈とお付き合いさせて貰ってます。桐島泰地です。」

なぜか身内に挨拶をするような挨拶をしてきた彼になんと返していいかわからず、とりあえず自分の名前を告げた。

「幸乃さんの話は、優奈からよく聞いています。優しくて可愛くていつも助けてくれると。」

「え…あ…え?」

優奈が私の話をしていたことにも驚いたが、そう思ってくれていたことに戸惑って頭がついていけてなかった。

「けど…昨日傷付けてしまったと、聞きました。」

「え…?」

「詳しいことを聞いたわけではないので、何を言って幸乃さんを傷付けたのかは知りません。けど、優奈はここ最近あなたのことを心配していました。苦しそう。笑顔が減った…と…。自分に出来ることは何かないかと言っていましたが…あなたを傷付けてしまったんですね…。」

彼女が私のことで悩んでいたという事実に、胸が痛くなった。
傷付けてしまった?違う。優しいあの子を傷つけたのは私だ。
泣かせてしまったのは私だ。

「優奈は…悪くないんです…。気に掛けてくれていたのを…私が突っぱねたんです…。傷付けてしまったのは…私です…。」

昨日の彼女の涙を思い出して、より一層胸が苦しくなるのを感じて唇を噛み締める。

「…ただ、恩返しがしたかったのかもしれない。」

顔を上げれば、彼はじっと優奈の絵を見つめていた。

「この絵を描くのに相当悩んでいたことを、俺は後から知りました。絵が描けなくなった。けど、幸乃さんに救われた。自分の本来の目的を、幸乃さんが思い出させてくれた。その時言っていたんです。自分も友達として何か出来たらいいなって…。」

ゆっくりとこちらを見た桐島さんは優しく笑った。その笑顔が何故か優奈の笑顔と重なって見えた。

「優しさって、難しいものだと思います。いや、それだけじゃない。生きてるうえで感じるものは人によって違う。自分にとっての優しさが、他人にとっては嫌なことかもしれない。だから傷付いて傷付けて、人との関わりを恐れてしまう。でも立ち止まって、ほんの少しでも相手のこと、自分のことを考えるだけでも変わると思うんですよね。」

「……。」

「って、これはあくまでも俺の考えで…。人間、十人十色。分からないときは分からないで諦めちゃうんですけど。でも…最初から諦めたくない。分かろうとするのは、やめたくない。…えと、そうじゃなくて…。何が言いたいかって言うと…、幸乃さんが傷付けてしまったと自分を責めるのは違うと思います。と言うか、まずは考えるのと、2人には会話が必要な気がします。」

喋りすぎましたねと、桐島さんは頭を下げた。
そんな彼に私も頭を下げて、ありがとうございますと伝えた。

まだ展示品を見たいという桐島さんと別れて、私は美術室を後にした。

外の空気が吸いたくなった。
自然と足は屋上へ向かっていて、その間、頭の中には桐島さんの言葉が何度も響いていた。

私は優奈のことを分かろうとしていなかった。
苦しそうだと、彼女は言った。

もしも、逆の立場だったら?
いや、あの時絵を描くことで苦しんでいた優奈のことが心配になって、見ていられなくなって、彼女の役に立ちたくて、彼女に話を聞いた。

きっと彼女も、同じ気持ちで私に声を掛けてくれた。

突っぱねてしまったことに罪悪感で胸が張り裂けそうになって唇を噛み締める。

「なーにしけた顔してんの?」

前から聞こえた聞き慣れたその声に、私は顔を上げた。

「聡美…。」

「ちょっと顔貸しなさいよ。」

意地悪く笑った彼女を、呆然と見つめた。


「優奈ちゃんと喧嘩したんだって?」

屋上に着くなり、そう言って笑う彼女に、えと声を漏らす。

「朝言われた。傷付けたって。」

「いや…それは」

「自分のせいだって?」

遮られた言葉に息を呑む。こくんと頷けば、彼女は鼻で笑った。

「あんたは何もかも自分のせいだね。」

カシャンと音がしたと思えば、フェンスに寄りかかっていた彼女が私の目の前でしゃがみこんだ。
見つめられたその瞳は、ひどく冷めているように思う。

「過去のことも、全部自分のせいにしてる。」

「っ…」

目を見開く。胸がどくんどくんと痛いくらいに脈打って、息苦しくなっていく。

どうして、聡美が…。

「隣のクラスだったからね。風の噂ってやつよ。」

思考が停止する。
速くなっていく鼓動も落ち着かせる余裕もなくて、ただ呆然と聡美を見つめていた。

「もう終わったじゃない。ただ、みんな会話がなかったんだよ。それでも、幸乃が責任を負う気持ちも分かる。自分の気持ち、言えなかったんだよね。怖かったんだよね。嫌われたくなかったんだよね。」

あまりにも優しい彼女の声に、涙が溢れ落ちた。

「その時に、自分が嫌いになったんじゃない?自分を責めて、責めて…。たった1つの自分の行動でも嫌になって。だから壁を作ってたんでしょ?人と。他人を傷付けたくなくて、自分を見せたくなくて。」

「…っ…。」

「でもそれじゃあ駄目なんだよ。ねぇ…。もうこれ以上幸乃を傷付けないであげて。幸せにしてあげて。自分から幸せを遠ざけようとしないで。あんたはもう十分苦しんだよ。過去のこと、自分のこと、受け止めてちゃんと前に進もう。周りを見てみてよ。幸乃を支えてくれる人はちゃんといるから。だから吐き出して。ちゃんとあんたを受け止めるから。」

そう言って私の頭に触れた彼女の手の温もりが温かくて、涙がぼろぼろと流れ落ちていく。

「こわ…かった…。いつも…人の目が…。嫌われないように振る舞ってたのに…間違った選択して…。どうして…なんで…って…。嫌いになった…。自分のこと…。付き合うようになっても…嫉妬とか…独占欲とか…。そんなのする権利もないのに…。気持ち悪かった…。気持ち悪かった…。今回も…。西川くんに知られたくなかった…。こんな自分…。嫌われたくなかった…。」

嫉妬している自分が許せなくて、受け入れられなかった。
どうせ全てが壊れるのなら、こんな感情いらないと思った。

恋愛で人は変わる。
それを第三者の目で馬鹿らしいと思いながら見ていた。
なのに自分も同じだった。
どろどろに入り交じった感情は黒くて醜くて汚い。
物語のように綺麗なものなんてこの現実にはなくて失望した。

それでも手を差し伸べてくれるこの人たちは、こんなにも綺麗であたたかい。

ああ…そうか…。
私は何も見ていなかった。人の負の部分だけを見て、黒い、汚い、嫌いだと嘆いて。それは自分に対しても同じ。私は私自身のことを何一つ見ようとしていなかった。

ふと顔を上げて聡美を見つめた。

「私…変われるかな…?」

歪む視界の中で、彼女はふっと笑った。

「何言ってんの…。幸乃は十分変われたじゃない。中3の時死んでた人間が、自分から友達に手を差し伸べて、時には喧嘩して。今回の文化祭も、行事ごとから背を向けてたのに、ちゃんと協力して、困ったら助けて。あの時の幸乃だったらきっとやってなかったことを、今のあんたはやってる。私とだって、泣き合って、こうして本音ぶつけて。こんなこと今までないよ。それが出来るようになったのって、もう大きな進歩じゃない?」

そう言われて初めて、私は私の行動に目を見開いた。
今までだったら考えられない。
人を見ようとせず、愛想笑いで誤魔化して、自分から1人を望んで、孤独を知って、人の大切さを思い知らせれ、何も出来ない自分を責めた。

あの一人暮らしの冷たい部屋の中。
うずくまって泣いていた自分が、こうして人前で泣いているのが信じられなかった。

私は変われているだろうか。
少しずつだけど、前に進めているのだろうか。

「でもあと少しだ。幸乃は恋愛に臆病になりすぎ。もっとさ、気楽で良いのよ。学生の恋愛。好きな人にはもっと、当たって砕ける勢いでいかないと。何回砕けたっていい。どんなことが起きても、幸乃を支えてあげる私たち友達がいるんだから。」

乗り越える力を、1人で作ってはいけない。

カフェで会ったマスターの言葉が、今カチリと音を経てて繋がったような気がした。

ぐいっと袖で涙を拭って、私は聡美に向かって笑った。

「ありがとう。」

今の私には、支えてくれる友達がいる。

「聡美が友達で本当に良かった。」

そう言えば、彼女は一瞬目を見開いたが、すぐにどこか得意そうに笑った。

「当たり前でしょ。」

2人で笑い合って、私は立ち上がった。

「謝ってくる…。」

「うん。きっとあの子なら許してくれる。」

その言葉に頷いて、私は走り出した。

支えてくれる友達を、失いたくない。


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