幸 –YUKI–
変わろうと思った。このままではいけない。
伸ばしっぱなしだった髪を切った。
学校へ行った。
クラスメートと話をするようになった。
無くなっていた体力を取り戻すために鍛え始めた。
父にも、弟の空にも頭を下げた。
今までごめんと。
父は泣き笑いのような表情を浮かべて、馬鹿野郎と口にしながら俺の髪をぐしゃぐしゃになるくらいまで撫でた。
空は泣きながら俺に抱き付いてきた。兄ちゃんとすがってくるその小さな体を、俺は強く抱き締めた。
「陸、空。明日からおじいちゃんとこ行くんだから、今のうちに準備しておくのよ。」
「ああ。」
「やった!兄ちゃんおれ海行きたい!」
はしゃぐ空の頭を撫でながら笑みをこぼす。
「分かったよ。一緒に行ってやるから。」
「やったー!!水着持ってく!」
嬉しそうに笑う空は水着!と言いながら母さんの方へ駆けていった。
そんな姿を見つめながら、また笑みがこぼれる。
「陸。お前宿題終わったのか?」
テレビを見ていた父の言葉に頷く。
「7月中に全部終わらしたよ。」
「そうか…。…引きこもってた奴とは思えないくらいに変わったなお前は。体も男らしくなって。俺に似て顔が良いんだから、彼女の1人や2人くらい連れて来いよ。」
あははっと笑う父に、呆れながらも笑みをこぼす。
「顔が良いって自分で言うのかよ…。それに、彼女は1人でいいっての。」
「お?いるのか?彼女?」
ニヤニヤする父にいねーよとぶっきらぼうに言う。
「なんだよー。お前も母さんに似た優しくて可愛い子を捕まえるんだぞ?」
「はいはい。」
母にベタ惚れなのを全面に出す父の言葉を流して、俺は自室へ戻った。
ベッドに横になって、ぼんやりと天井を見つめる。
『西川くんが好きです。』
この3ヶ月。変わってから告白をされるようになった。
気持ちは嬉しい。けれどその子達を好きになることは出来なくて。
人が苦手なのは今も変わらない。
それでも、俺には別の理由がもう1つある。
『大丈夫ですか?』
公園で項垂れていた俺に、声を掛けてくれた1人の女の子。
中学2年の夏。
無理矢理つれていかれた母の実家で、俺は変わらず引きこもっていた。
そんな俺に、母はどこかに行ってきたらと提案してきた。
知らない町。
自分のことなんて誰も知らない。
母の言葉に対して返事はせず、俺は外を出た。
歩いて、歩いて。
何十分歩いたか。体力の限界を越えた俺は近くにあった公園のベンチで項垂れた。
8月上旬。猛暑が続く真っ只中。
日陰があるベンチだからといって、体力も水分もない俺にとってそこは安らぎの場所になるわけもなく。
何か飲み物…。
ポケットに小銭を入れたことを思い出し、水を買おうと起き上がったところで、目眩がした。
グラッと体がベンチから落ちそうになって、辛うじて足をついてそれを止める。
けれど、そこから立ち上がることが出来なかった。
最悪。そう思った時だった。
『大丈夫ですか?』
不意に聞こえた声に顔を上げれば、自分と同じ歳位の女の子が心配そうにこちらを見つめていた。
『え…あ…』
何て言っていいか分からずにいれば、尚もこちらを見つめてくる彼女に、自分の鼓動が熱くなるのを感じた。
『熱中症…ですよね…?あの…飲み物は…?』
そんな俺に、彼女は少し控えめな声でそう口にした。
その言葉に首を横に振れば、ちょっと待ってて下さいと言って、彼女は走ってどこかに行ってしまった。
取り残された俺は1人、遠ざかっていく彼女の後ろ姿をただ見つめていた。暫くして、彼女は飲み物を1本抱えながら戻ってくる。
『これ…良かったら…。』
そう言って差し出されたのはスポーツドリンクで。
ありがとうございます。聞こえるか聞こえないか分からないくらいの声を発して、それを受けとる。
蓋を開けてそれを喉に流し込めば、面白いくらいにどんどんと入っていく。気が付けば500mlのペットボトルは空になっていた。
『あ、もう1本いりますか…?』
そう言って走り出そうとした彼女を、急いで制止する。
『あ…の…ありがとうございます…。助かりました…。』
彼女の顔は見れずに、俯きがちにそう口にする。
『いえ…。あの…大丈夫ですか?お家に帰れますか?』
『だ、大丈夫です…。すみません…迷惑掛けて…。』
少しだけ顔を上げてそう口にする。
前髪の下から見つめた彼女は心配そうな顔をしていたが、急に優しく笑った。
その笑顔に、不意に自分の胸が高鳴るのを感じた。
『迷惑だなんて…。少しでもお役に立てて良かったです。本当に暑いので、気を付けて下さいね…。私は…これで…。』
軽く会釈をして、彼女はそそくさと行ってしまった。
その後ろ姿にも声を掛けることは出来ずに、呆然と見つめる。
煩いくらいに心臓が鳴り響いて、頬に熱が集まってくる。
こんな感覚、初めてだった。
過去に2回位、気になる子というのは出来たことがある。
けれどそれは本当に気になる子に過ぎなくて、こんな感覚に襲われたことはない。
先程の彼女の優しい笑顔が頭から離れなかった。
名前はなんて言うのだろう。
もう一度会えないだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
『陸、大丈夫?』
ふっと、その声に現実に戻されたような気がした。
顔を上げれば、そこには買い物袋を下げた母がいて。その姿に、先程の胸の高鳴りは消えて、だんだんと心が冷えていくのが分かった。
冷めた目で、俺は母を見つめた。
『さっきの女の子、優しい子ね。』
その言葉に、一瞬思考が停止する。
けれどすぐに、ふつふつと何かがわき上がってくるような感覚に襲われる。
『可愛い子ね。また会えると』
『関係ないだろ。』
母の言葉を遮るようにそう言って、俺は立ち上がる。先程よりも軽くなった体を動かして、母の横を通りすぎる。
『陸…。』
母の呼び掛けなど無視して、俺はそのまま歩みを進めた。
それから、俺はあの公園には行っていない。
あの時の出来事を思い出してため息を溢した。
理不尽にも程があるだろうと思う。
内心で母に謝罪をしながら、忘れることのない彼女の笑顔をまた思い浮かべる。
「…名前…聞けるかな…。」
優しさをくれた彼女に、もう一度会いたい。
同じ日、同じ時間に行けばきっと…。
彼女にもう一度会えることを願って、そっと瞳を閉じた。
伸ばしっぱなしだった髪を切った。
学校へ行った。
クラスメートと話をするようになった。
無くなっていた体力を取り戻すために鍛え始めた。
父にも、弟の空にも頭を下げた。
今までごめんと。
父は泣き笑いのような表情を浮かべて、馬鹿野郎と口にしながら俺の髪をぐしゃぐしゃになるくらいまで撫でた。
空は泣きながら俺に抱き付いてきた。兄ちゃんとすがってくるその小さな体を、俺は強く抱き締めた。
「陸、空。明日からおじいちゃんとこ行くんだから、今のうちに準備しておくのよ。」
「ああ。」
「やった!兄ちゃんおれ海行きたい!」
はしゃぐ空の頭を撫でながら笑みをこぼす。
「分かったよ。一緒に行ってやるから。」
「やったー!!水着持ってく!」
嬉しそうに笑う空は水着!と言いながら母さんの方へ駆けていった。
そんな姿を見つめながら、また笑みがこぼれる。
「陸。お前宿題終わったのか?」
テレビを見ていた父の言葉に頷く。
「7月中に全部終わらしたよ。」
「そうか…。…引きこもってた奴とは思えないくらいに変わったなお前は。体も男らしくなって。俺に似て顔が良いんだから、彼女の1人や2人くらい連れて来いよ。」
あははっと笑う父に、呆れながらも笑みをこぼす。
「顔が良いって自分で言うのかよ…。それに、彼女は1人でいいっての。」
「お?いるのか?彼女?」
ニヤニヤする父にいねーよとぶっきらぼうに言う。
「なんだよー。お前も母さんに似た優しくて可愛い子を捕まえるんだぞ?」
「はいはい。」
母にベタ惚れなのを全面に出す父の言葉を流して、俺は自室へ戻った。
ベッドに横になって、ぼんやりと天井を見つめる。
『西川くんが好きです。』
この3ヶ月。変わってから告白をされるようになった。
気持ちは嬉しい。けれどその子達を好きになることは出来なくて。
人が苦手なのは今も変わらない。
それでも、俺には別の理由がもう1つある。
『大丈夫ですか?』
公園で項垂れていた俺に、声を掛けてくれた1人の女の子。
中学2年の夏。
無理矢理つれていかれた母の実家で、俺は変わらず引きこもっていた。
そんな俺に、母はどこかに行ってきたらと提案してきた。
知らない町。
自分のことなんて誰も知らない。
母の言葉に対して返事はせず、俺は外を出た。
歩いて、歩いて。
何十分歩いたか。体力の限界を越えた俺は近くにあった公園のベンチで項垂れた。
8月上旬。猛暑が続く真っ只中。
日陰があるベンチだからといって、体力も水分もない俺にとってそこは安らぎの場所になるわけもなく。
何か飲み物…。
ポケットに小銭を入れたことを思い出し、水を買おうと起き上がったところで、目眩がした。
グラッと体がベンチから落ちそうになって、辛うじて足をついてそれを止める。
けれど、そこから立ち上がることが出来なかった。
最悪。そう思った時だった。
『大丈夫ですか?』
不意に聞こえた声に顔を上げれば、自分と同じ歳位の女の子が心配そうにこちらを見つめていた。
『え…あ…』
何て言っていいか分からずにいれば、尚もこちらを見つめてくる彼女に、自分の鼓動が熱くなるのを感じた。
『熱中症…ですよね…?あの…飲み物は…?』
そんな俺に、彼女は少し控えめな声でそう口にした。
その言葉に首を横に振れば、ちょっと待ってて下さいと言って、彼女は走ってどこかに行ってしまった。
取り残された俺は1人、遠ざかっていく彼女の後ろ姿をただ見つめていた。暫くして、彼女は飲み物を1本抱えながら戻ってくる。
『これ…良かったら…。』
そう言って差し出されたのはスポーツドリンクで。
ありがとうございます。聞こえるか聞こえないか分からないくらいの声を発して、それを受けとる。
蓋を開けてそれを喉に流し込めば、面白いくらいにどんどんと入っていく。気が付けば500mlのペットボトルは空になっていた。
『あ、もう1本いりますか…?』
そう言って走り出そうとした彼女を、急いで制止する。
『あ…の…ありがとうございます…。助かりました…。』
彼女の顔は見れずに、俯きがちにそう口にする。
『いえ…。あの…大丈夫ですか?お家に帰れますか?』
『だ、大丈夫です…。すみません…迷惑掛けて…。』
少しだけ顔を上げてそう口にする。
前髪の下から見つめた彼女は心配そうな顔をしていたが、急に優しく笑った。
その笑顔に、不意に自分の胸が高鳴るのを感じた。
『迷惑だなんて…。少しでもお役に立てて良かったです。本当に暑いので、気を付けて下さいね…。私は…これで…。』
軽く会釈をして、彼女はそそくさと行ってしまった。
その後ろ姿にも声を掛けることは出来ずに、呆然と見つめる。
煩いくらいに心臓が鳴り響いて、頬に熱が集まってくる。
こんな感覚、初めてだった。
過去に2回位、気になる子というのは出来たことがある。
けれどそれは本当に気になる子に過ぎなくて、こんな感覚に襲われたことはない。
先程の彼女の優しい笑顔が頭から離れなかった。
名前はなんて言うのだろう。
もう一度会えないだろうか。
そんなことを考えていた時だった。
『陸、大丈夫?』
ふっと、その声に現実に戻されたような気がした。
顔を上げれば、そこには買い物袋を下げた母がいて。その姿に、先程の胸の高鳴りは消えて、だんだんと心が冷えていくのが分かった。
冷めた目で、俺は母を見つめた。
『さっきの女の子、優しい子ね。』
その言葉に、一瞬思考が停止する。
けれどすぐに、ふつふつと何かがわき上がってくるような感覚に襲われる。
『可愛い子ね。また会えると』
『関係ないだろ。』
母の言葉を遮るようにそう言って、俺は立ち上がる。先程よりも軽くなった体を動かして、母の横を通りすぎる。
『陸…。』
母の呼び掛けなど無視して、俺はそのまま歩みを進めた。
それから、俺はあの公園には行っていない。
あの時の出来事を思い出してため息を溢した。
理不尽にも程があるだろうと思う。
内心で母に謝罪をしながら、忘れることのない彼女の笑顔をまた思い浮かべる。
「…名前…聞けるかな…。」
優しさをくれた彼女に、もう一度会いたい。
同じ日、同じ時間に行けばきっと…。
彼女にもう一度会えることを願って、そっと瞳を閉じた。