泣いてる君に恋した世界で、
「……いい加減帰ったらどうなの?」
「んー今日はバイト休みだから」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないんだけど」
呆れた声が耳の真上から聞こえた。床を鈍く擦る音と再び筆を取る音にいつの間に席を立っていたのだと気付かされる。
何もすることがない俺は定位置でぼんやりしているのも許されないのか。てか俺寝てたみたい。
外はもう日が落ちる頃だ。
「望月は? まだ帰んないの?」
窓の向こうから望月に視線を移す。相変わらず描く時の姿勢がいい。真剣な眼差しも。何度か向けられる視線は未だに冷たいけれど、この穏やかすぎる時間が落ち着くんだ。
てか、無視かよ!まだ怒ってんの!?一体俺が何したんだっ。
「俺帰るわ」
「動かないで!」
突然上げた声にのろりと腰を落としていく。
なになになに。びっくりすんだけど。
でも何となく分かった気がする。たまにあるんだよね。俺が動こうとするとさ、いきなり今みたいに声張り上げるの。
「さっきみたく机に肘ついて、外見てて」
ほら。絶対そうでしょ。それに望月のスケッチブックは2つある。濃い緑とオレンジだ。きっと今はオレンジの方を使っているはず。
聞こうと思えば聞けるんだろうけど、多分はぐらかされる。すぐ隠そうとするし。オレンジだけは絶対に触れさせてくれない。その中には何が描かれているのだろうって見かけるたびに思ってる。
だから――。
「望月ってさ……それ俺描いてんの?」
自分で聞いといて後から恥ずかしさがやってくるのやめて欲しい。平静を装ってはいるけれどどうか気付かないで欲しい。なんなら夕日のせいにしてくれ。
ところで、一向に反応がみられない彼女に視線を向けてみた。
そこには鉛筆を持ったまま固まっている彼女がいた。その姿が面白くてついスマホを向けてシャッターを切ろうとするタイミングで右手に持っていた鉛筆が床へ落ちた。
望月は我に返って落ちた鉛筆を広い、俺は撮れた写真を見て笑ってしまった。どうやらちょうど望月が屈んだ瞬間を撮ってしまったようだ。何を被写体に撮ったのか分からないくらいブレている。
やっぱ写真って面白い。シャッターを切るタイミングで見ている世界がこんなにもあやふやになったり、馬鹿になったり、鮮明になったり、色んな表情が一瞬にして捕らえることができるのだから。
そして、タイミングって大事なんだとも。
「ちょっと!何撮ったの!?」
「見てみこれ……ふはっ、これ望月なんだけど、っ机と一体化しすぎてどれが望月か分からない、ッはは!」
「ねえっ笑い過ぎ!……んふふっほんとだあははは!机と一体化ッアハハハ!」
この瞬間を撮りたい。遺したい。そう思ったのはただの閃きだ。望月がいつも以上に笑うから。この眩しい朝日のような笑顔が儚く見えて仕方ない。
よく撮れたね!とお腹を抱えて笑う君はとても可愛く見えてとても愛おしくて……。
なぜだろう。喉の奥が苦しくなるような、気が付いたら泣いていたような感覚に陥っているのは。
お互い声に出して笑っているだけなのに、この瞬間はもう二度と来ないんじゃないかって。楽しいはずなのになぜだか泣きたくなった。