祈る男と渇いた女
  祈る男

 海の近くのある小さな町に三十代の半ばを過ぎた、彫りの深い顔立ちで棒のような背の高い男が住んでいました。 
 男の仕事は八百屋の店番でしたが、いつも黒くて長いエプロンをして、お客様のどんなにつまらない世間話や身の上相談にも熱心に聞き入るので、八百屋の神父さん、と町の人たちは親しみを込めて彼を呼びました。 
 
 そんな男にも、暗い過去がありました。
 
 男が幼いころ、父親が女に狂って家族を捨てたので、家計は行き詰まって満足に食べるものもなくなりました。そんな家族を支えていたのが田舎の祖母でした。ところがその祖母も男が十歳のころ死んだのです。
「もう社会の底辺で、ウジ虫のように生きるしかないのか」
 男は未来を悲嘆し投げやりになると、近所の悪い仲間と夜更けまで遊び回りました。
(神さま、どうか息子を赦して下さい)
 病がちな母親でしたが息子を不憫に思うあまり無理をしながら働いたので、とうとうある日、無理がたたって仕事中に倒れこの世を去りました。
「母が死んだ」
 真夜中の病院の待合室から、男は恋人に電話をしました。
「残念ね。でも介護の手間が省けたし肩の荷がおりたんじゃない」
 恋人はとても冷ややかでした。
「そんな……」
「なによ」
「……」
「葬儀を手伝ってほしい」
「嫌よ」
「え、どうして」
「煩わしいわ」
 女は冷淡に言って電話を切りました。
「何てやつだ」
 男は深夜の病院の待合室で、怒る気力もなくがっかり肩を落としました。
「一人で母の葬儀をするしかないか」
 男は独り母を見送りました。
 喪が明けると、男には膨大な借金が残されました。
「もう破産するしかない」
 男は彼女のアパートに行きました。
 借金返済の相談をするためです。
 すると女は彼をさげすむように見つめ、
「あたしパトロンができたの」
 と平然と言ってのけたのでした。
「金にしか目がないのか!」
「貧乏は嫌なの。彼はとってもお金持ち毎月お小遣いをくれるわ」
 女はテラスに腰掛け、涼しい顔でタバコを吸いました。
「このくそ女が!」
「あんたこそ、くそ野郎だわ。出て行って!」
 女は煙草を咥えたまま、吐き捨てるように言うと、男を足蹴にしました。
 その後、男は破産したのでした。

 母親を失って十八年が経ちました。
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