恋獄の鎖

 ティエラディアナが家を飛び出してから、わたくしはぼんやりと日々を過ごすようになった。

 すぐ帰って来ると思っていたのだけれど帰っては来ない。

 あの子が一人で外を過ごせるはずもなく、ならばやはり初めての恋人の元へと向かったのだろう。


 抜け殻のようなわたくしの身を案じ、エバンスやその妻のアンナがよく話しかけてくれる。

 けれど彼らが何と言っているのか分からず、まともな返事もできないでいた。


 そして三日目だろうか。

 ミハエルが家に戻って来た。

 顔を見るのは何日振りのことか。陽の差し込む明るいリビングで見る顔は、相変わらず優しげで……底冷えのする表情だった。

「お久し振りね、ミハエル」

「――これを」

 ミハエルは帰宅の挨拶も、わたくしの皮肉への返事もせずに一枚の薄い紙を上着の内側から差し出す。

 ソファーに座ったままのわたくしは、それがまるで汚らしいものであるかのように親指と人差し指だけでつまんで受け取った。そして一瞥すら与えずに投げ捨てる。

「嫌よ」

 確認するまでもなく分かっている。どうせ署名済みの離縁願いだろう。

 ミハエルは顔色を変えるでもなく床に落ちた紙を拾い上げ、ガラステーブルの上に置いた。

「このまま結婚生活を続けていたとして、僕も君も幸せにはなれない。それはもう何年も前から君だって分かっているはずだ」

「何年も前から、ですって?」

 わたくしは笑みを浮かべた。

「おかしなことを言うものね。それくらいのことは結婚した時からずっと分かっているし、知っていたわ」

「分かっていながら、何故」

 ――それでもあなたを愛しているからよ。


 ミハエルの目を挑発的にのぞきこみながら、喉まで出かかったその言葉を口にすることはできなかった。


 そう。

 わたくしは、わたくしのものになりはしないこの男を愛しているのだ。

 おそらく、初めて見たあの時から。

 惨めで、無様で、愚かなだけの女に成り下がっていたのだ。


 間違いなく、直接言える機会はこれが最初で最後だっただろう。

 けれど今さら告げたところで何になると言うのか。

 人に愛を伝えたことのない、気位の高いもう一人のわたくしが伝えることを許さなかった。

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