恋獄の鎖
 ようやく――いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない――心の安寧を得たわたくしは、自分を取り巻く状況の整理をはじめた。


 まず手をつけたのはやはり離縁願いだった。

 それはミハエルが一方的に署名して残して行っただけで、法的な権限は今のところまだない。

 このまま何もせず手元に置いておけば、今まで以上に形だけは夫婦として体面を保っていられる。もしミハエルがあの舞台女優と再婚を願ったとしても、わたくしの手元に離縁願いがある限りは叶わない。


 薄氷に似た家庭を象徴するような一枚の紙切れが、今この場において何よりも強固な鎖としての役割を担っている。

 ミハエルはそこにも気がついていたのだろうか。


 気がついていたなら、わたくしにその場で署名させて自分で離縁願いを提出するだろう。そうしなかったと言うことは気がついてはいなかったのか。

 最早真実を知る術もない夫の行動を不可解に思いつつ、わたくしは自分が記入すべき欄に名を記した。


 離縁願いの提出も含め、後のことは全て、お兄様に任せることになっている。


 お兄様も分かっているのだろう。

 わたくしはもう、長くはない。


 一人になった時、急性の中毒になるほどアルコールに溺れなかったら、多少の猶予はあっただろう。

 けれど、それで数年生き永らえたところで何になるのか。

 決して長くはない、だけどわたくしにとって短くはない時間を凛として生きて行ける自信はどこにもなかった。

「それとお兄様、いちばん最後にどうしても聞いて欲しいことがありますの」

「……何なりと言ってみなさい」

 いちばん最後。

 その言葉にお兄様の顔が悲しげに歪んだ。わたくしはあえて見なかった振りをして”最後の願い”をお兄様に伝える。

「分かった、必ずや責任を持って我が最愛の妹君の最後の願いを叶えよう」

「ふふ。お願い致します」

 少し疲れてしまったとベッドに横たわれば、お兄様はまた見舞いに来ると言って部屋を出て行く。

 わたくしは目を閉じた。

 つい今しがたお兄様に頼んだばかりの願いに思いを巡らせる。


 ――ねえお兄様。もし……もしわたくしの死から一年経ってもリザレットの息子がティーナを忘れられずに居場所を知りたいと訪ねて来たら、その時は二人を引き合わせて差し上げて欲しいの。

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