恋獄の鎖
「それだけですの?」

「それだけ?」

 彼はどうやら本当にわたくしが戸惑う意味が分からないらしい。思い返せば、彼はそもそもわたくしのことすらも知らなかったのだ。社交界における状況を知らずとも何らおかしくはない。

(どうしてこうも面白くない男なの)

 ややあって、女性の口からそれを言わせるのかと半ば憤りながらも口を開く。

「ですから、わたくしの実家の権力や、あるいは……このわたくし自身を要求しないのかと言いたいのよ」

 自分がまさか、こんなことを言うなんて思ってもみなかった。

 屈辱と怒りのまま睨みつけたいのをプライドで抑え込み、驚いた表情を浮かべる青年を見つめる。


 ――ああ、しまった。


 わたくしから切り出すということは、要求を聞く心づもりがあると言っているに等しいではないか。

 わざわざ不利な立場に自分を追い込んでしまった。

 初歩的な駆け引きさえ忘れるほど思考を乱されていたことが腹立たしい。

「直したお礼をちゃんと言ってもらったのに?」

 青年はわたくしとは対照的に困ったように右手で頭を掻く。

 それから何をどう言うべきか、視線を彷徨わせて迷っている様子を見せながらも言葉だけはちゃんと選んで告げた。

「ああ、その……貴族間の礼儀や作法とか、良く知らなくて申し訳ない。でも僕としてはすでにお礼をもらったから、これ以上を望むことなんてないよ」



 再びテラスに一人になったわたくしは、青年に直してもらったブレスレットのはまる右手首をそっと押さえた。

 心をざわめかせるものの正体には気がつかぬままに。
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