蛇と桜と朱華色の恋
序 手折られた紅雲の花
白い桜の花びらが風に舞い、視界を遮断する。沈みゆく西陽のあかいひかりがその光景に加わり、周囲は真紅に燃え上がる。
桜の甘い芳香にむせながら、幼い少女は傷ついたちいさな蛇を掌のうえにそっと乗せて言葉を紡ぐ。
「Eyaitemka hum pak pak〈恢復せよ、小さき雷の神の御子よ〉」
――蛇は竜神さまの御遣いだから、殺してはいけないの。
亡き母が子守唄のように口にしてくれた神謡が、脳裡で甦る。
咄嗟に声にだした呪文が正しかったか、自信はない。けれど、目の前でいまにも息絶えそうなちいさな白い蛇を見た瞬間、はやく助けないと間に合わないと判断したから、少女は土地神が与えてくれた加護のちからを発動していた。
それは、白い山桜に囲まれた集落、雲桜に暮らす『雲』の部族だけが持つ古民族が残した神謡の断片。集落では滅多やたらと使ってはいけないと戒められているけれど、いまは危急を要する時だからと少女は思いなおし、ぴくりともしない蛇にちからを注ぎつづける。
おとなに見つかったらたかだか蛇にそのようなちからを使うものではないと叱られ、座敷牢で数日罰せられる。そうはわかっていても少女はやめられなかった。
――おねがい、起きて!
この、ちいさな蛇の命をたすけたい。
もう、自分の前で死んでいく姿を、見たくない。病に倒れた母を治癒術で救えなかったあの時みたいに悲しい思いをしたくない。それがたわいもない自己満足でしかないことはわかっているけれど……
山裾を西陽が照らしあげていく。真っ白な桜の花は血のようにあかく染まっていく。空に浮かぶ雲とともに。そして、ふたたびの桜吹雪が少女を襲う。これ以上、呪文を唱えてはいけないとでもいいたそうに、花神の強烈な風が、吹き荒れる。
それでも少女は言葉を紡ぐ。必死になって祈りを捧ぐ。
ひとつに束ねていた長い髪は風に巻き上げられ、身にまとっている白藤色の袿の裾もひらひらと揺らめく蝶のように空を泳ぐ。いつ身体が吹き飛んでもおかしくない状態が、拷問のようにつづく。
禍々しいほどに鮮やかな、紅雲の時間が過ぎていく。すでに太陽は地平線の彼方へと姿を消し、入れ替わるように夜の世界を支配する黄金色の月が、喉を枯らした少女の頭上で輝きはじめている。
時間にすれば一刻にも満たない。なのにとてつもなく長く感じてしまうのは、ちからを使っていたからだろう。少女は言葉を止め、空に浮かんだ満月に目を瞠る。
その瞬間、変化が訪れた。禍々しい夕焼けの炎が、静謐な夜に消火されたかのように。
「……あ」
掌のうえで動かなくなっていたはずの小蛇が、身じろぎする。かたく閉じられた瞳がうっすらと開き、驚いたように少女を見上げている。
天空に輝く月とおなじ、黄金色の双眸の、ちいさな白い蛇だった。
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