蛇と桜と朱華色の恋
――彼って誰のこと?
そうか、失った記憶の先には出逢ったはずの人間がいる! そう確信した朱華は、自分の闇に沈もうとしていた濃紫色の双眸が、いつもの菫色の色合いへ戻っていることに気づかないまま、未晩が口にした言葉を思い起こし、推測していく。
未晩の執拗な愛撫を堪えながら、朱華は頭を働かせていく。
二日間の記憶は竜糸の神殿にまつわること。きっと自分は神殿の人間に、裏緋寒の乙女として召集を受けたのだ。けれど、未晩は反対したはず。だから自分だけ、強引に神殿に招かれた形になったのだろうと想像をつける。そして諦めきれなかった未晩はなんらかの理由で自らの闇鬼に自我を喰われ、妄執を残した幽鬼となって朱華を取り戻したのだろう。
だとしたら、神殿の人間もまた、朱華を諦めるつもりはないはずだ。
他力本願かもしれないが、未晩に囚われ、いいようにされている朱華はもはや、祈ることしか許されない。
――誰か!
ふと脳裡に浮かぶのは、琥珀色の瞳の青年。
あれは、誰だっただろう。きっと、自分にとってとても大切な、かけがえのない存在。
竜神さま? 違う。竜神さまじゃない。けれど……
「蛇神に助けを乞おうとしても無駄だよ。人間に身をやつしたあいつに、オレは斃せない」
あがきつづける朱華を面白そうに見下ろし、氷のように冷たい指先で邪魔をつづける。それでも朱華は振り絞るように、声を、あげる。
「蛇、神……?」
白い蛇の姿が、人間に姿を転じる。夜の空を纏ったかのような漆黒の髪に月のひかりのように清らかな、宝石のような双眸が……黄金色にもみえた、神々しい青年に。
未晩に溺れまいと夢中になって呼吸を繰り返しながら、朱華はついに思い出す。
幼いころ、朱華が禁術をつかって生き返らせた、白い蛇のことを。
蛇は竜神さまの御遣いだと母は口にしていたけれど、それは古い書物の伝承でしかない。
なぜならいまの竜糸の御遣いは蛇ではなかったし、仮に蛇だとしても、黒い蛇だから……
「あぁ……!」
――白蛇は、亡き集落の雷神さま……だったんだ。
ホッとしたように、朱華の意識が闇に沈む。瞳を閉じたはずみで零れでた涙は未晩に気づかれる間もなく衣に吸い込まれていく。
「――や、ず、み」
あがくように最後に求めたのは、あなたがいれば大丈夫だと、信じていながら裏切ってしまった、愛しいひとの名前だった。