蛇と桜と朱華色の恋
+ 2 +
湖からあがり、人型になった竜頭は静まり返った神殿の最奥部、湖畔の間の、かつて代理神が座っていた朱漆の椅子に腰かけ、右手で黒檀色の髪をわしわしかき混ぜながら、苛立ちを隠さず周囲を見渡す。
「まだ、幽鬼に妨害されとるのか」
「あの場所だけ、瘴気が濃すぎて、近寄れないのです」
途方に暮れたように星河が告げ、雨鷺も彼とともに項垂れる。
未晩が朱華を攫って一夜が明けた。神殿から逃れた未晩は何事もなかったかのようにかつて自分と朱華が暮らしていた診療所に戻り、身を潜めている。触れただけで気がおかしくなりそうな大量の瘴気を結界のように張り巡らして。
「里桜さまたちが必死になって払ってますが、消しているわけではないので次から次に瘴気が湧き出てしまうみたいです。まるで竜糸中の瘴気をあの場所へ集めているかのようだと里桜さまが嘆いております」
雨鷺が水鏡越しに届いた里桜の報告を竜頭に伝えると、ふむ、と考え込むように彼が息をつく。いまも未晩が籠城している診療所を囲むように里桜、颯月、氷辻の三人が絶えず神術で壁を破ろうと奮闘している姿が水面に映っている。ともに神殿を飛び出した夜澄の姿が見えないのが気になるが、この様子だとまだ朱華は幽鬼に囚われていると考えてよいだろう。星河は目覚めたばかりで完全に動けない竜頭に治癒術を施すため、御遣いである雨鷺とともに神殿に残り、連絡手段である水鏡を見つめつづけている。
「奴は明日が来るのを待っているのだろう。裏緋寒に秘められたちからが開花するそのときを」
竜頭の言葉に、雨鷺が心配そうに声をあげる。
「朱華さんは、大丈夫なのでしょうか」
昨晩、未晩の身体を乗っ取った幽鬼は朱華を傷つけ、唇を奪っていた。診療所でふたりきりになっているいま、彼女の身が安全かどうかは計り知れない。
「あの幽鬼は己を鬼神だと名乗りをあげた。ならば、まだ夫婦神となる契約を結ばされてはいないだろう」
あの貧相な身体じゃ抱き心地もよくないだろうにと竜頭がぼそりと口にしたのはきかなかったことにして、星河は改めて水鏡に視線を落とす。夜澄の姿が見えた。
「夜澄、何してる」
「正面から突破できねぇか見てきたが、駄目だった」
一睡もせず朱華を案じていた夜澄はやつれきった表情を浮かべている。さっきまで診療所の軒先から様子を見ていたそうだが、「本日休診」の札がかかったままで、変化は見られなかったという。
「物音ひとつしない。瘴気が防音の役割をしているのかもしれない」
「気配は」
「ある……朱華と忌わしい幽鬼は同じ場所にいる」