蛇と桜と朱華色の恋
+ 4 +
周囲を見回せば、純白の八重桜が天空に届きそうなほどまで花枝を伸ばしている。朱華は真っ赤な袿を羽織った姿で、その中心に立っていた。
――が来たわ、娘が来たわ。
これは夢だ。そうわかっているのに、朱華はいつも同じ言葉を空に向けて投げかけてしまう。
「そこにいるのは誰?」
返事はない。けれど朱華の声に反応するように、白い桜の花枝は腕を伸ばすようにぐんぐんと拡がっていく。
白い桜に覆われていた世界に、空色の雫が溶け込んでいく。太陽が顔を見せ、朱華の身体をひかりが貫く。熱さを感じないひかりは、そのまま四方へ散っていく。朱華の玉虫色の髪が深い緑色に煌めきを見せる。
すぐさま熱風が巻き起こり、白い桜は灼熱の空気に晒されその美しい姿を焼かれ、墨色の花びらが朱華の足元へ積もっていく。
ゆうらり、と浮かび上がる人影は紅蓮の髪と紫苑色の瞳を持つ、見知らぬ男。常人とは異なる、猛々しい雰囲気を持った、それでいて神々しさを持つ美しい男。
「――我が名は茜桜」
唇が紡ぐ音は、懐かしさを彷彿させる。けれどその名を朱華は知らない。
「ごめんなさい、わからないの」
茜桜と名乗った男はそんな朱華を気にすることなく、天へ向けて手を翳す。
呟かれたのは、神々とともに生きたカイムの民が使ったとされる古の言葉。
いまとなっては神術を扱えるごく少数の人間しか使わなくなった神謡の古語。朱華の亡き母が子守唄のように歌ってくれた、北の大地の神々の謡。その神謡自体はいまも息づいているが、母のように完璧に諳んじることのできた人間は、いまでは殆どいないはずだ。
けれど、茜桜は容易く神謡を吟じ、術を使った。雪を呼ぶ呪文だった。
たちまち桜は姿を消して、冷たい雪に包まれていく。
「いまはまだわからなくとも、すぐに汝は思いだす。なんの問題もない」
「茜桜……?」
「ただ――花を開かせるには、まだ早い」
花。朱華は淋しそうに瞳を曇らせる茜桜の隣で、ぽつりと零す。
「汝のその封印が解かれしとき、眠れる竜は覚醒し、神嫁を求めるだろう。カシケキクに等しいフレ・ニソルの我が娘よ」
カシケキク、それは至高神と呼ばれるカイムの地の天空の姫神が人間とのあいだに産み落としたとされる『天』の一族の別称。そのなかでも特に天神の娘と呼ばれる少女は『雨』『風』『雷』『雲』『雪』すべての加護術に通じ、国をも動かすとされる伝承を持っており、朱華のような凡人でも耳にする言葉である。だが、茜桜がそのあとに口にしたフレ・ニソルという言葉は、何度も見るこの夢が覚めてしまうと、不思議とあたまのなかからすとんと抜け落ちてしまう。
「ルヤンペアッテの竜に縋るのは仕方ないが、我としては複雑な心境だ」
茜桜が口にするルヤンペアッテの竜とは、朱華が暮らす竜糸の『雨』の土地神のことだろう。だけどなぜ、自分が土地神に縋ることになるのかは、この夢を見るようになってから十日近く経とうというのに、見当がついていない。
首を傾げる朱華に、茜桜は嘆息する。
「わからないのは仕方がない。花残り月のはじまりの日まで――……」