蛇と桜と朱華色の恋



 少女は最後まで気づかなかった。
 蛇は掌の上に乗せられる以前から、すでに息絶えていたことに。


   * * *


「ここで、じっとしているんだよ。この悪夢が、終わるまで」

 誰もが土地神の守護から引き裂かれ、逃げまどうことしかできずにいる。そのなかで、少女だけが蚊帳の外へ放り出されていた。術師である父親が施した、命がけの結界だった。

「ヤダ、お父さんも一緒に……!」
「それはできないよ。いいかい。花神さまの遺志を継いで、生き延びるんだ。生きて、逆斎(さかさい)を頼りなさい」
「さか、さい?」
「そうだ。紅雲であるお前には神術の才がある。雲桜が失われても、お前の身に宿る『雲』のちからは変わらない。それに『天』に連なる逆斎の人間なら、神でなくても鬼に勝てる」

 父親が少女へ言葉を贈るあいだも、雲桜に暮らしていた人間は、次から次へと鬼によって葬り去られていく。ぬちゃりともぺたりとも言い知れぬ気味の悪い足音が、父親の背後に迫っている。けれど、少女はそれを眺めることしかできない。どす黒いおおきな爪が、父親に向かって振りかざされる。悲鳴を押し殺して、首からどくどくと血を流しながら父親は叫ぶ。

「お前は、土地に仕える逆さ(いつき)に……!」

 最期の言葉が溶けて消える。少女はもはや声をあげることもできずにいた。双眸から滴り落ちる涙をぬぐうこともせず、悪夢の終焉をひたすら、待つ。
見知った雲桜の民がひとり、またひとりと鬼に喰われていく。元凶がどこにあるか真相に辿りつく(いとま)を与えることなく、首を捥がれ、五臓六腑を引きずり出され、手足を噛み切られ、残虐に殺されていく。おびただしいまでの血が津波を起こし、神聖なる土地を穢していく。目を背けたいほどの光景。けれど少女は瞳を閉じない。忘れてはいけない。目に焼きつけて、離れないようにしなくては……

 ――鬼を、斃せる人間に。逆さ斎に、なる。

 いまは非力な自分だけど、いつか、雲桜のみんなの仇を討つために。
 そう、強い決意を胸に秘めたまま、瞳に涙を溜めたまま、気が狂いそうになりながら見つめていたけれど。
 少女の目の前に、燃え上がる炎に照らされ赤く染まった髪の少年が現れて、にっこりと微笑まれたところで、ぷつりと意識が途切れた。

「しばらくお休み。この胸糞悪い夢が醒めたら、キミに逢いにいくよ……愛しいひと」

 脳髄を揺さぶるように告げられた言葉を、少女は耳底に落とし、安心したかのように深い眠りへと誘われていく。
 それは、次に覚醒したそのときまでに目の前の悪夢が過ぎ去っていることを願うかのような、幼い少女のささやかな逃避だった――……
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