蛇と桜と朱華色の恋
「そっか」

 朱華はしょんぼりした面持ちで、夜の湖へ目を向けている。もし、ここにいるのが星河ではなく里桜だったら、彼女はこの湖に問答無用で突き落とされているかもしれない。そのまま強引に竜頭を起こして、竜糸の危機を朱華の犠牲で終わらせるのではないか……星河はふとそんなことを考え、苦虫を噛み殺した表情を見せる。
 たしかにそれがいちばん手っ取り早い。かつて、いちど、そうやって竜糸の結界を強化したことがあるのだから。

 ――裏緋寒の乙女を生贄に投じてしまえ。

 いや、そんなことできるわけない。いくら、里桜さまがお望みになっているからって……
葛藤を隠したまま、星河は足音を立てることなく朱華の隣から後ずさる。湖に視線を向けたままの朱華は星河が動いたことにも気づいていない。
 自分の前で無防備に背中を見せる朱華を見て、震えが走る。
 いまの竜糸は雪が降ってもおかしくない気温だが、湖のなかは地上よりも温かいのか、凍りついた気配はない。夜の帳が下りたいま、この少女を竜頭が眠る湖底へ突き落したら、どうなるだろう? 土地神は目覚めるのか……?


「莫迦なことはやめろ」


 振り上げた腕を、思いっきり叩き落される。星河はすぐそばまでやって来ていた同朋の姿に気づき、乾いた声でその名を呼ぶ。

「夜澄」

 ぼんやりと湖を見つめたままの朱華も、彼に気づいたのか顔をあげ、憤怒の表情に彩られた夜澄を見て、驚いている。

「どうしたの?」
「……どうしたもこうしたも」

 漆黒の髪に琥珀色の瞳を持つ、星河よりもはるか昔から竜神に仕えている桜月夜の総代。彼は星河の腕をきつく掴みながら、朱華に叫ぶ。

「お前は緊張感がなさすぎる! 神殿内ではお前が裏緋寒であることを厭う人間もイヤってほどいるんだぞ! もうすこし自覚しろ!」

 ぽかん、と口をあけている朱華を睨みつけながら、夜澄は星河にも吠える。

「星河も星河だ! いくら里桜が彼女を非難したからっていきなり湖に突き落とそうとしただろ? あのときといまは違う! ……いま、そんなことをしても無駄だ」

 夜澄が怒りをあらわにしている横で、星河は気まずそうに朱華の表情をうかがう。朱華は夜澄が言っていることの意味がわかっていないのか、いまも不思議そうに夜澄の表情を観察している。
 夜澄は呆れたように朱華の背中へ手をまわすと、しっしと星河を追い払う仕草をする。

「もういい。あとは俺が代わる。お前は戻れ」
「すまない」
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