蛇と桜と朱華色の恋
――逆さ斎になれ。
それは、父親が最期に九重に告げた言葉。
その言葉通り、九重は雲桜の滅亡後、逆さ斎が暮らす集落、椎斎に落ち延びた。それから修業を重ねて逆井一族に認められる逆さ斎になった。名前も里桜というふたつ名に改められ、土地神と対等に取引のできる術者となったのだ。
雲桜の滅亡から十年。九重は里桜となり、眠れる竜神に代わる半神に選ばれ竜糸の地に君臨している。だが、誇りあるこの役職が、里桜を縛りつけているのも事実。
里桜は故郷の滅亡を招いた少女が、自分が仕える土地神の花嫁として選ばれたという新たな衝撃を、未だ受け入れられずにいる。
「大樹さま」
なのに、どうしていま、頼りになる彼が隣にいないのだろう。自分の半神。ふたりでひとつの代理神。すべては彼がいなくなってしまったから、起こってしまったのだ。大樹がいつづければ、結界は護られたままだったし、竜頭を起こす必要もなかったし、裏緋寒の乙女を花嫁として神殿に招くこともせずにすんだのに……
そこまで考えて、里桜はハッと我に却る。
「颯月」
代理神である里桜はふたつ名を呼ぶ権利も持っている。だから朱華のことをあえて朱華と呼び、竜糸の代理神として彼女と面会した。そして桜月夜のなかにも神々と対等の人間として認められたふたつ名を持つ人間がいる。
「お呼びでしょうか?」
呟いただけで自分の傍に風のようにやってくる少年は、ふたつ名で縛った主のただならぬ状況に驚きを隠すことなく、その場に跪く。
「カシケキクの大神殿をあたってほしいの」
自分が逆さ斎、すなわち神皇帝が持つ『地』の加護に近い人間であるのと逆に、大樹は対をなす『天』の加護を持つカシケキクである。彼らが所属するカイムの中央に位置する大神殿だけが、至高神と直接的なやりとりを許されているのだ。
「きっと、大樹さまは至高神によって身動きをとることができないだけよ。あぁ、どうしていままで気づかなかったのかしら! あなたから『天』に接触して」
至高神はとても厄介な神だ。かの国の神のなかで唯一の不老不死を謳う、美しき母なる天の神。気まぐれに異界に通じる穴をつくって人間と幽鬼を争わせたり、自分の息子である土地神たちに集落の統治を任せて人間の男とのあいだに子どもを作ったり、滅びを招いた娘を土地神の花嫁に据えようとしたり……たぶん、あの天神は今回も眠りっぱなしの息子を起こすために人間たちを翻弄させ、どこかで高みの見物をしているはずだ。