蛇と桜と朱華色の恋
逆さ斎は土地そのものに仕える斎。神からの加護を受けずとも果敢に生きるが、地母信仰に基づいた独自の象徴を抱いている。それが、神皇帝の紋章にも使われている印璽に描かれる、月。逆井一族に認められた男児は月の影という称号のもと、神皇帝とともに神々の守護する国の補佐をするのだ。
けれど未晩はその月の影になることの叶わなかった、逆井一族に認められなかったなりそこないだ。
だから至高神が情けをかけて裏緋寒の番人に召したのかもしれない。
そこまで考えて、彼は自分と同じ銀髪に緑の瞳を持つ逆さ斎でありながら、まったく別の、自分とは反対の位置にいる人間だということを改めて悟る。
それは、彼とはけして相容れることないだろうという諦めにも似ている。
里桜は未晩の言葉を撥ね退けるように鋭く言葉を発す。
「月の影のなりそこないの言葉など無用よ。闇鬼の呪力をつかって竜糸に悲劇を起こしてまで自分の望みを叶えようとは思っていないの」
「残念です。神に逆らう斎たる貴女が、代理の神という座に甘んじているなんて」
「何をっ……」
悲しそうな未晩は里桜の腕を摑み、手の甲へ口づける。
「貴女が竜神の花嫁になれるよう、祝福してあげましょう」
にこやかに微笑む未晩の翡翠色の瞳は、笑っていなかった。
「そんな外法で竜頭さまが惑わされるわけがない!」
口づけられた手の甲を衣でごしごし拭いながら、里桜は抵抗する。それでも手の甲の周りはむず痒さがつづいている。目を凝らせば、蟻に似た羽虫が皮膚を喰らうように集い、里桜の手に印を刻みつけている。これは幻覚。呪詛なんかじゃない。自分と同じ術者なのだから、撥ね返せばいいだけのこと。
「――土地に仕えし逆さ斎が命ずる、我が身を襲いし悪しき幻よ、失せよ!」
古語を使わない詠唱は逆さ斎特有のもの。土地神ではなく土地そのもののちからを分けてもらうことで術を発動させる逆さ斎は、地面の上にいる限りどこででもちからを具現することが可能になる。
里桜は竜糸の代理神だが、それ以前に椎斎の、逆井を名乗る優秀な逆さ斎だ。月の影になることの叶わなかった男など、神術を使わずとも斃せる。
そう思ったのだが。
「甘い」
未晩は口角を歪めながら、里桜の術をするりと避ける。風のような彼の動きに、里桜は目を瞬かせた後、キッと唇を一文字に結ぶ。
「――神に逆らいし斎が命ず、神に従いし愚者に氷剣の制裁を」
その瞬間、未晩が詠唱を行い、氷で作られた大剣を虚空から生み出す。透き通った剣の刃先は里桜の首元につきつけられている。
しまった、と里桜の顔色が赤から青へ変わるのを嬉しそうに確認した未晩が、つまらなそうに氷剣を手のなかで溶かす。シュウウと蒸気を発しながらまたたく間に消えていった氷剣を愕然とした表情で見つめる里桜に、未晩は穏やかに告げる。
「貴女を殺すことなどわけのないこと。ですがあの方は貴女を望まれている……貴女を殺すことはできないのです。ただ、代理神である貴女の存在が目障りなのは事実。そして僕の朱華を竜糸の土地神に明け渡そうとしている貴女たちのことが許せないのも事実なのです」
もぞり、里桜の右手の甲に刻まれた黒い印が羽虫によって形作られていく。
「だから僕は貴女から、逆さ斎のちからを奪って、竜糸の集落を滅ぼすことを選んだのですよ」