蛇と桜と朱華色の恋
「やられたわ。彼、ただの逆さ斎じゃない。幽鬼と手を組んだことで更に禍々しくなっている」

 夜澄が里桜の右手の甲へそっと手を乗せると、黒い羽虫は霧散するものの、もぞもぞと抵抗するように暴れながら再び蹂躙をはじめる。どうやら神術で消し去っても、施されたもともとの術が解けない限り、次から次へと湧き出てしまうようだ。

「すまん、痛かったか」
「痛みはないわ。たぶん、幻術でしょうから」

 羽虫に噛み切られた出血の痕も、痛覚もすべて幻。ただ、逆さ斎のちからを消しさる忌術を自分の体内へかけられてしまったのは、幻ではないのだ。

「それより夜澄、裏緋寒はどうしたのよ。あなたがひとりで護るというから好きにさせてあげているのに」
「あいつなら離れで眠っている。傍には雨鷺を置いている」
「そう、雨鷺が護っているの」

 彼女なら問題ないだろう。里桜の侍女である雨鷺は、竜糸のルヤンペアッテのなかでは最強の加護を持っているのだ。彼女が傍にいる限り、逆さ斎が朱華のもとへ向かっても、強固な結界で撥ね飛ばせる。裏緋寒を護るのに適した人材だから、夜澄も素直に任せたのだろう。そして里桜が何者かと争った気配に感づいたから、ここに来たのだ。

「それよりなぜ逆さ斎がこちらに? 狙いは裏緋寒ではないのか?」
「その、裏緋寒を自分のモノにするために、あたくしの逆さ斎のちからを奪おうとしているみたい……彼は、幽鬼と接触して、闇鬼を同化させている。この印が完成したら、あたくしはただの紅雲の娘に戻ってしまう……」

 おろおろする里桜の姿は、年相応の幼さが顔をのぞかせる。夜澄はそんな里桜の言葉を反芻して、ぼそりと呟く。

「……フレ・ニソルだったのか」
「ええ。雲桜が滅んでから、逆さ斎になることを選んだ。いまさら、ふたつ名を名乗れないただの『雲』に戻りたくなどない」
「だが、この術を解くのは容易ではなさそうだ」
「夜澄でも無理よね」
「無理だ」

 きっぱりと告げる夜澄に、里桜はくすりと笑う。

「でも、裏緋寒の記憶を取り戻すことはできるのではなくて?」
「さあな」

 里桜に指摘されても夜澄は素早くはぐらかす。雲桜が滅んだ際の記憶を朱華は完全に思いだしたわけではない。あのあと苦痛に顔を歪ませた朱華は夜澄の腕の中で意識を失ってしまった。まだ未晩が施した術は完全に抜けていないということだろう。まるで桜を捕えた暗色の芥子の花のように、朱華の記憶は幻に囚われている。

「けれど、彼女の記憶が戻るのを待つ時間も、ちからが解放されるのを待つ時間も、大樹さまが戻られるのを待つ時間も、あたくしたちには残されていないわ」

 すぐにでも竜神を起こして、竜糸の結界を強化しなくては。
 焦りを見せる里桜は、率直に命じる。

「裏緋寒を、竜神の生贄に」
「できるか!」

 言葉を遮るように、夜澄は反発する。けれど里桜は仕方がないのよと悲しそうに告げる。

「……そうすれば、竜頭さまは眠りから醒め、結界は元通り。竜神さえ目覚めれば、あたくしにかけられたこの呪詛だって簡単に解けるし、彼女を狙う逆さ斎は身動きが取れなくなって自滅する」
< 56 / 121 >

この作品をシェア

pagetop