蛇と桜と朱華色の恋
「竜神さまはあなたのことを何も言っていないわ」
「だが、竜頭は俺に記憶を戻させようとしている。術を解けるのは術をかけた逆さ斎か、神しかいないからな」
記憶を操った未晩が朱華の記憶を戻すなど論外だ。竜神は朱華に自分が目覚めるまえに記憶を元に戻せと告げた。そうなると、朱華が記憶を元に戻してもらうために頼るのは、不安定な代理神の里桜か、人間に身をやつした雷神、夜澄のどちらかになる。
「だから、夜澄がいいの」
「俺しかいない、の間違いだろ」
里桜はひとりでは神の代理になれない。大樹がいなければ、彼女は神と対等に渡り合える逆さ斎のちからを持つ表緋寒でしかない。結果的に夜澄しか朱華の記憶を戻せないことを、彼女はわかっていないのだろうか。
「……そうかもしれない」
弱々しく頷く朱華に、夜澄は今度こそ彼女の肩を抱く。朱華は、拒まなかった。
「朱華」
ふたつ名を呼ばれ、朱華は驚いたように顔をあげる。
「そういえば、夜澄はずっと、あたしの名前を呼ばなかったね」
「そういえば、そうだったな」
「それは、夜澄が神だから?」
朱華のことを「お前」と呼びつづけていた夜澄。なぜ、名前を呼んでくれないのかずっと不思議だったが、彼は桜月夜の守人のひとりの人間としてではなく、滅んだ集落の土地神の一柱として朱華と向き合うことを、はじめから考えていたのかもしれない。
――神がふたつ名を無視して人間の名を呼ぶと、その人間と向き合っているあいだは神のちからを使えないから。
「集落を滅ぼされた土地神が落ち延びたなんて、情けないだろ」
ぽつり、と弱音を吐く夜澄に、朱華は首を振る。
「そんなことない、誰だって死にたくなんか、ないもの……」
幽鬼が雲桜を襲った時の記憶は、まだ完全に思い出せないが、それでも朱華は恐怖を感じる。実際に集落を滅ぼされた夜澄は、きっと、命からがら逃げ伸びたのだろう。
「竜頭はそんな俺を匿ってくれた。幽鬼の襲来により壊滅した雷蓮の民を受け入れ、ルヤンペアッテの加護を分け与えてくれた。その見返りに俺は竜頭にちからを与えた。そのちからで彼は幽鬼を退けた。『雷』の集落は滅んだが、ルヤンペアッテの竜がアイ・カンナの閃光を受け継ぐことになったんだ」