蛇と桜と朱華色の恋
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強い神気に室で雨鷺と縫物をしていた里桜はハッと顔をあげる。
「いまの……?」
「いいえ。竜頭さまではありません」
室の前でじっと番をしている星河を呼ぶと、彼は複雑そうな表情を浮かべている。
「きっと、朱華さんの記憶を夜澄が戻したのでしょう」
「そう……戻ったのね」
彼女は自分がしたことを追体験するのだ。雲桜が滅ぶ前後の出来事、すべてを。
「でも、夜澄はなぜ、いまになって彼女の記憶を戻したのかしら」
苦しい記憶など無理に思い出させなくても、彼女には竜神を呼ぶちからがあるというのに。雨鷺は理解できないと首を傾げる。
竜頭より強いちからを持つ雷神だった夜澄。彼は人間に身をやつしてはいるが、神と対等の立場にいる。記憶を戻すことくらいなら、不完全な彼でもできると里桜は考えていたが、本人は最初は乗り気ではなかった。だというのに、茜桜が至高神に預けた封印が明後日にも解けるというこのときに、あえて記憶を戻した。なぜ?
そんなの決まってる。彼女が記憶を戻すよう、彼を求めたから。
記憶の封呪は口唇を媒介に行われる。強引に奪って記憶を解くのは至難の業だ。
だから夜澄は待っていたのだろうか。朱華が、自分を求めてくるのを。
そして彼は彼女に応え、契約は成立した。それだけのこと……
だというのに、里桜の表情は硬い。裏緋寒の乙女として、竜神の花嫁にさせるつもりの朱華が、竜頭ではなく夜澄に記憶を解かせたという事実に、心がついていけないでいる。
「里桜さま。桜月夜と裏緋寒の恋は、認められないのですよね」
前世に辛い思いを経験した星河と雨鷺が、苦しそうに言葉を紡ぐ。
「それは、人間同士のはなしよ。夜澄は、もとはといえば『雷』の蛇神。竜頭よりもずっと高位の神だったのよ。もし、彼が本気なら……あたくしは認めざるおえない。竜糸を存続させるために」
ずっと朱華を気にかけていた夜澄。彼もまた、彼女に秘められた花神のちからを最初から欲していたのだろうか。いや、違う。至高神に唆されても竜頭の傍で守人の役割に徹していた彼のことだ、別の理由がある。けれどその理由がわからない。里桜が黙り込んでいるのを見て、雨鷺が苦笑する。
「たぶん、竜頭さまが、お膳立てしたのでしょう。あの方は、朱華さまを自分の花嫁にする気はさらさらないそうですから」
「――水兎、竜頭さまの声をきいたのか?」
「すこし。さきほどの神気を浴びて意識が戻ったようで、眠そうな声でしたが」
「なんて言ってたの?」
『あの裏緋寒の乙女は自分には勿体ない。運命をともにする神は別におる……とはいえ、さすがに里桜ひとりで代理神をさせるのは辛かろう』
キィン、という甲高い音とともに、雨鷺の姿がちいさな兎に変化する。彼女は星河の腕に抱えられた状態で、竜神に囁かれた言葉を変換していく。
『まもなく戻る』
そして兎は星河の腕を飛び出して駆けていく――目指すは、竜神の本体が眠る湖。
残された星河と里桜は目配せをして、兎のあとを追いかける。