蛇と桜と朱華色の恋
竜頭に前を遮られていたはずの未晩は瞬間的に夜澄を殴り、その隙に朱華を自分の胸へと抱え込む。水に濡れ衣を身体に貼りつけたままの朱華は「……う」と苦しそうに身じろぎする。玉虫色の髪は烏の濡羽色のように色濃く艶めき、青味がかった白い肌は氷のような透明感を魅せている。彼女はこんなにも美しかっただろうか。夜澄は自分たちが窮地に追い込まれているというのについ、朱華が未晩の腕で悶えながら身体をしならせる姿に目を奪われ、そんな自分に腹を立ててしまう。なぜあのとき素直に口にしなかったのだろう、自分は彼女に命を救われたあのときから、ずっと彼女を想いつづけていたということを。
彼女が未晩と結婚の約束をしていたという事実や、竜頭の神嫁に選ばれたという事実が、夜澄の恋心に鍵をかけていた。けれど、記憶を戻すと決意し、自分の口づけを求めた朱華に応えた瞬間、その封じは瓦解した。
「あけはな」
彼女は未だ、記憶の真実に苦しんでいるのだろうか。だからといって未晩の術で記憶を塗り替えていたときのように、偽りの記憶で彼女を縛りつけるのは赦されることではない。
「おぬし、わしの裏緋寒をどうするつもりだ?」
黙って事態を見つめていた竜頭は、夜澄が未晩を攻撃しようにも朱華にまで危害を与えかねないと判断して佇んでいるのを見て、声を荒げる。
「いつ、貴様の神嫁になったんだ? これはオレのものだ」
未晩はくだらないと一笑し、朱華の頬へ指を這わせる。長い爪が、朱華の頬を切り裂き、真っ赤な血を滴らせる。その血を掬って口に含むと、嬉しそうに未晩は頷く。
「神々の花嫁というのなら、オレが鬼神になってやるよ。ならば至高神とやらも別に文句は言わねえだろう?」
幽鬼の王は、自分こそが幽鬼の神だと豪語し、朱華の髪に唇を落とす。夜澄はその光景を見ていられなくてふいと顔を背けてしまう。たしかに、いまの状態では自分は未晩に敵わない。
だが、未晩の方は朱華を手元に取り戻せたことで満足したのか、すでに臨戦態勢を崩している。「いけない」と口にしたのは雨鷺だったか、氷辻だったか……
「これで竜糸を心おきなく滅ぼせる」
逃がすまいと結界を張っていたにも関わらず、未晩と朱華は忽然と姿を消していた。未晩が残した言葉だけが、いつまでもいつまでも湖内にこだまする――……