冷たい海
 窓から射し込む夕陽が僕の箏をオレンジ色に染めていた。僕はその夕刻、無性に箏を奏でたくなった。自らの奏でる音で不安も辛さも悲しみも、全てを掻き消してしまいたい。そんな気分だった。
 爪が弦を弾くと、僕の部屋には小々波の旋律が響き渡った。砂浜に寄せては返す旋律。それは静かで小さく儚くて。だが僕の爪は、絶え間なく弦を弾いた。そして小々波は、重なり繋がり纏い合い……奏者である僕を飲み込むほどに大きな『海』の調べとなった。
 題名もつけていないその調べを奏できった僕は、一気に脱力して箏の隣に手をついた。それと同時に、部屋は物哀しいほどの静寂に包まれた。
 その時だった。
「涼平兄ちゃん……すごい」
 不意に呟かれた声に振り返ると、僕の部屋のドアのあたりで車椅子の美夏が僕の箏奏に小さく拍手を送ってくれていた。
「勝手に入って来んなよ」
 僕はむず痒い気持ちを堪えるように頭をポリポリと掻いた。
「いいじゃん。涼平兄ちゃんだって、美夏が何回言っても勝手に入ってくるんだし」
 彼女は悪戯っぽい笑顔になった。

 彼女はその前日、退院していた。
 あの日……車椅子に初めて座った日の翌日からは、彼女はまるで何事もなかったかのように明るく振る舞った。そう……自らを蝕む不治の病の影など微塵も感じさせないくらいに。車椅子さえなければ彼女は元の、海辺を元気に走り回っていた彼女のままだったのだ。
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