冷たい海
 美夏が小学校に入学して以降は、夏には家から見える海へよく二人で遊びに行った。その水は夏でも相変わらず冷たかったが、それが逆に心地よかった。
 その冷たさの所為か、海にはやはり生き物の気配はなくて。でも、くるぶしまで水につけた僕達は、まるで親潮の運ぶ栄養塩で育まれているかのように、キラキラとはしゃぎ合った。水をかけ合ったり、追いかけっこをしたり。その時からしょっ中、美夏は転んで顔中砂まみれで笑っていた。それは、とても楽しくて幸せな笑顔だった。
 そう。砂まみれの彼女はとても幸せそうだったのだが……今思えば、それはあの忌まわしい病気の症状の現れだったのかも知れなかった。

 僕が高校に入学した年だった。彼女に最初の症状が現れたのは。
「おい、美夏。早く起きて。遅刻するよ!」
 僕はいつものようにさっさと朝ごはんを食べ、身支度を済ませて彼女の部屋のドアを叩いた。
 彼女が朝、中々起き出してこないのもいつものことだった。低血圧ぎみの彼女は朝が苦手で、僕が毎日のように起こしていたのだ。
「起きられない……ねぇ、涼平(りょうへい)兄ちゃん。部屋に入ってきていいから、私を起こして」
「何だよ、全く。しょうがないなぁ」
 僕は頭を掻きながら彼女の部屋のドアを開けた。十五歳になっていた彼女は、普段は一丁前に、自分の部屋への僕の進入を禁じていた。でも都合のよい時だけ、僕を部屋に入れたのだ。
 僕はこの時はまだ、この事態をさほど深刻に捉えていなかった。
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