冷たい海
 しかし、彼女は僕の顔色の微妙な変化を見逃さなかった。
「やっぱり……私、もう歩くことができないんだね」
 美夏は淡々とした口調でその言葉を響かせた。彼女の口から発せられたその言葉はあまりにも無機質で現実味がなくて……だからこそ、その残酷な事実への深い悲哀をその病室全体に響かせていた。

 でも僕は、彼女の言葉を否定することができなかった。
 分かっていた。彼女の底知れぬほどに澄んだ瞳は、僕の口が彼女のその言葉を否定することを望んでいた。「大丈夫だよ、美夏は必ず元気になる」って、他の誰でもない……僕の口からその言葉を聞けるのを待っていた。
 でも……僕は言えなかったのだ。

 僕と彼女の間に静寂が流れた。
 まるで金縛りにあったかのように何も言葉を発することのできない僕と彼女の間に流れるそれは、まるで永久に続くかのように感じられて。『美夏はもう、永久に歩くことができない』ということを肯定するのには充分な時間だった。
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