悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
 オペラ鑑賞で仲を深められたと思っていたのに、なぜか、距離感は変わらず。
 というより、少しだけ距離が空いたように感じなくもない。いや、むしろ避けられている。……なぜだ。何がいけなかった?

(僕より、クラウドと話している方が楽しそうだったな……)

 婚約者を差し置いて仲が良さげに話している二人を見ているだけで、心が荒んでいくのがわかる。このままではいけない。しかし、距離を詰めようとするたび、イザベルが離れていく。
 心を強く持つんだ。次期公爵ともあろう者が、このぐらいでへこたれてどうする。
 自分を叱咤激励しつつ、口を開く。

「さっきから考え込んでいるようだが、何か深刻な悩み事か?」

 イザベルはハッとしたように顔を上げた。

「っ……い、いえ。些細なことですので、どうぞお気になさらず!」

 婚約者なのに、悩み事さえ打ち明けてもらえない。

(仲を深めるにはどうしたらいい?)

 どうすれば、彼女は自分の心を開いてくれるだろうか。それとも僕はそんなに頼りない男なのだろうか。そう思うと、心がずしんと重くなった。

「ところで、今週の週末だが……」
「申し訳ございません。ここしばらく予定が立て込んでおりまして、お会いするのは難しいと思いますわ」
「……そうか」

 わかりきっていた言葉だが、知らずダメージは蓄積していく。
 イザベルはテーブルを眺めていた視線を上げ、ゆっくりと立ち上がった。

「所用がありますので、お先に失礼しますわ」

 申し訳なさそうに言われてしまっては、未練たらしく引き留めるわけにはいかない。

「それが君の役目なら仕方あるまい」
「話が早くて助かります。ではごきげんよう、ジーク」

 レオン王子への差し入れを手に取り、イザベルはサロンから出ていく。振り向いてほしいという願望は叶わず、僕は一人ため息をついた。

      *

 初めて薔薇を贈った。僕を見てほしくて。
 紅の薔薇の花言葉は「情熱」である。
 一本のときは普通の贈り物として受け取られてしまったが、今回はうまくいったと思う。これまで季節の花を贈ることはあっても、続けて薔薇を贈ったことはない。
 これで、さすがに気づいていない、ということはないだろう。
 カスミソウの花言葉は「幸福」「無邪気」「永遠の愛」。僕の意図にも気づいてもらえたと思う。
 舞踏会での約束も取りつけた。不安はすべて取り除けたと思っていた。

 今夜のために飾り立てたドレス姿のイザベルが踵を返すまで。

 フローリアと二人、その場に取り残されて僕は言葉を失った。
 何かを間違えてしまったと気づいたのは、彼女の背中が小さくなってからだった。
 クラウドにフローリアを託し、公爵令息として挨拶回りをこなす。大丈夫だ。うまく表情は取り繕えている。相手の話に相づちを打ちながら、イザベルが戻るのを待っていた。
 視界の端に若葉色のドレスが映り、自然と目がそちらへ移動する。
 彼女もこちらに気づいたのか、まっすぐと視線が向けられる。僕は話を切り上げ、彼女のもとへ足を向けた。

「待っていた。もう大丈夫なのか?」
「え、ええ……。それよりも、フローリア様と踊っていたのでは……?」
「彼女なら、クラウドに預けてきた」

 前から思っていたが、イザベルにとってフローリアはどういう立ち位置なのだろうか。ただの友達以上に気にかけているように見える。
 僕が調べた限りでは、彼女たちの出会いは高等部からのはずだ。クラスも違うし、接点も特にない。なのに、ここまで親密になる理由がわからない。
 フローリアもイザベルを慕っている。まるで血を分けた姉のように。
 僕には見えない繋がりが彼女たちにはある。それを断ち切ることはできないが、今夜のイザベルのパートナーは僕だけだ。

「もとより、今夜は君以外と踊るつもりはない。僕との約束はまだ有効だろうか?」
「もちろ……」

 イザベルは何かに気づいたように言葉に詰まり、眉根を寄せた。

「今宵はまず、フローリア様と踊っていただけませんか? せっかくダンスの手ほどきもしたのですから、その成果を本番で見てほしいと思うのは、自然なことだと思うのです。……わたくしは、その次に踊っていただければ充分です」

 何を言われたのか、理解するまで数秒を要した。
 そして頭で考えるより先に、否定の言葉を口にしていた。

「それはできない」
「……理由をお聞きしても?」

 ここではゆっくり話せない。僕はバルコニーを見やり、先ほど見た月を思い出していた。

「今夜は月が明るいし、場所を変えよう」

 外に出ると、舞踏会を彩る音が遠くなった。夜風が心地よい。
 人払いしたバルコニーで、僕は婚約者に許しをねだった。

      *

「その格好はどうしたんだ?」
「え?」

 一見、庶民にしか見えない格好だったが、僕が見間違えるはずがない。彼女の後ろには眼鏡をかけたリシャールもいた。
 帽子を脱ぎ、僕の正体に気づいていない様子の婚約者に種明かしをする。

「僕だよ、イザベル」
「……っ!」

 目を見開き、僕に向けられた人差し指がおののくように小刻みに揺れる。

「……ジーク……なのですか?」
「ああ」
「ど……どうしてこちらに? お一人なのですか?」
「取り寄せしていた学術書が届いたと知らせを受けたので、農場の視察帰りに立ち寄ったんだ。従者は外で待っている」

 答えると、イザベルはちらりと外を見やった。

「さて、今度は僕の質問に答えてもらおう。その服装は一体どうしたんだ?」
「こ、これには……理由がありまして……そのう」

 視線を泳がせるイザベルはリシャールを気にしたような素振りを見せたが、彼は無言を貫いていた。
 二人の様子から察するに屋敷を抜け出してきたのだろう。
 いつもは背中を流れる蜂蜜色の髪が帽子の中に収まっていて、もったいないと感じる。無意識に手を伸ばすと、びくりとイザベルが瞼を震わせた。
 彼女の帽子を外すと、ふわりと長い髪が広がり、香油の柑橘系の香りが広がる。

「……髪がボサボサだな」

 恥ずかしそうに顔を赤らめるイザベルをからかうと、きっと眦をつり上げた。

「なっ……誰のせいですか! 勝手に脱がしておいて、淑女の髪をけなすなんて紳士のすることではありませんわ!」

 必死に髪の毛を撫でつける仕草も愛らしい。

「すまない。つい、出来心だ」
「あ……謝ればいいというものでもありません」
「君があまりにもいじらしい目で見つめてくるから。とりあえず、まずは場所を移そう。ここでは営業妨害になる」

 まだ抗議を続けようとしたイザベルの肩を抱き、外の通りに出る。リシャールがついてくるのを確認し、従者が待つ車へと向かう。
 どう言い訳をしようかと悩んでいる様子の婚約者を横目で見ながら、僕は彼女の期待に応えるための算段を立てる。

 その一ヶ月半後。意外な場所で、婚約者の新たな一面を知ることになるとは露ほども思わなかった。
< 118 / 121 >

この作品をシェア

pagetop