悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
結局、イザベルはそのまま保健室まで連行された。
フローリアが養護教諭に簡単に事情を話している。白衣を着た女性はまだ若く、ややオーバーに驚いてみせた。
「あらあら、大変! 何か着替えるものを用意しなくちゃ……ちょっと待っていてちょうだい」
イザベルに毛布をかぶせると、そのまま保健室から出て行ってしまう。
密室にフローリアと二人きりにされ、イザベルは困った。まさかこんな展開になるなど、つゆほども想像していなかった。
お互いの緊張で空気が重くなっていくのを感じる。
(き、気まずい……)
先に沈黙を破ったのはフローリアだった。
「立ったままでいるのも何ですから、どうぞおかけください」
「あ、ありがとう……」
勧められるまま、イザベルは近くの丸椅子に座った。
本当は今すぐ逃げ出したい。けれど、確かめておきたいことがある。
「あの。フローリア様は……わたくしのことはご存じ……なの?」
「この学園で、イザベル様を知らない者などいません」
「そう……そうよね」
愚問だった。恥ずかしくてうつむくと、フローリアがつぶやくように言う。
「イザベル様こそ、どうして私の名前を?」
「あなたは有名だもの。入学式から二週間後の転校生。話題性は十分だと思うけど」
「確かに、そうですね」
ゲームでも、ヒロインは異例の時期に転校してくる。
学園中に転校生の噂は瞬く間に広がり、転校の理由にあらゆる憶測が飛び交った。
(会話をするのは今日が初めてだけど、これは……チャンスかもしれない)
イザベルは覚悟を決めて、フローリアを見据えた。
「ねえ。この際だから聞いておきたいのだけど、いいかしら?」
「は、はい。何でしょうか」
フローリアは緊張した面持ちで、次の言葉を待つ。その目をまっすぐ見て、イザベルは長年の疑問をぶつけた。
「わたくしの評判って悪いものばかりなのかしら?」
「え」
「あなたは転校生だから、まだ学園の空気に染まりきっていないでしょう。だから本当のことを教えていただけないかしら」
唖然とするフローリアに気づかず、イザベルは目を伏せて続けた。
「ほら、伯爵令嬢って肩書きのせいで、みんな本当のことは言ってくれないの。どの方も親切に振る舞ってくれるわ。けど、どこかよそよそしいというか。確かに実家の後ろ盾はあるけど、わたくし自身は、そんなに怯えられるようなことをした記憶はないのよね……」
声をかけただけで怯えられる経験は、一度や二度ではない。一体何をしたというのだろう。本人にまるで心当たりがないだけに、心の傷は深くなっていく一方だ。
その苦悩が伝わったのか、フローリアが遠慮がちに答えた。
「あの、噂はそんなに詳しくないですけど。……イザベル様が心配なさっているような内容ばかりではない、と思います」
「そうかしら。わたくし、そんなに怖くないのよ? 本当よ?」
言い募ると、フローリアがかすかに笑った。
「噂は気にする必要ないと思います。イザベル様は大変可愛らしい方だということ、私は今日知りました。みんな、話せばわかってくれますよ」
「そう……そうかしら」
「もちろんです」
力強く肯定され、イザベルは面食らった。つい愚痴を吐き出してしまったが、励まされるとは思っていなかった。
(フローリア様は強い方なのね。それに比べて、わたくしは臆病者だわ……)
本当に聞きたかったことは、ジークフリートとの関係だった。どのくらい好きなのか、どこが好きなのか、聞きたいことはたくさんあるのに聞けなかった。
落ち込んだイザベルを元気づけるためか、フローリアは明るく言う。
「荷物を取ってきましょうか。他に何か入り用のものはありますか?」
「特には……あ、帰りの車を手配しないと」
伯爵令嬢たるイザベルは毎日、自家用車で送迎してもらっている。
いつもは同じ時間に迎えにくるのだが、フローリアの噂を調べるために「今日は遅めに」とサロンの管理人に言付けを頼んでいた。したがって、このままだと待ちぼうけになる。
イザベルは独り言のつもりだったが、すぐに了承の言葉が返ってきた。
「わかりました。お任せください!」
言うや否や、フローリアは踵を返して廊下へと出て行った。
(だ、大丈夫かしら……)
一抹の不安を覚えていると、入れ違いに養護教諭が戻ってきた。
「放課後でなかなか生徒がつかまらなくて、職員室まで走ってきたわ。これぐらいしか用意できなかったのだけど。どう、着られそうかしら?」
そう言って、どこかで調達してきたらしい服を差し出した。イザベルは畳まれた服を広げ、目を丸くした。
「これは……何ですか?」
「ちょっと小さいかもしれないけど、初等部の制服よ。そのまま濡れた制服を着たままよりは、幾分マシだと思うのだけど」
「…………ありがとう、ございます」
この際、背に腹はかえられない。
ベッドのカーテンを閉め切り、制服と一緒に借りたタオルで髪を簡単に乾かす。
幸い、スカートより下の被害は少ない。下着も無事だ。ただし、ブラウスの袖が肌に張り付いていたせいで、脱ぐのに四苦八苦した。
「…………ふう」
イザベルは昔懐かしの制服に袖を通し、自分の姿を見下ろした。
高等部のブレザーから一転、初等部のワンピースに着替えた姿は、どこからどう見ても初等部の生徒だ。とても高等部の生徒には見えない。
強いて言えば、胸のあたりがきついぐらいだ。
だが、これを着こなせるということは、身長が伸びていないという裏づけに等しい。神様は無慈悲だ。なぜ、こんなむごい仕打ちを。
イザベルは沈痛な表情のまま、無言でカーテンから姿を出す。
「あらあら、ぴったり! とても可愛いわ。お持ち帰りしたいくらいね」
ぴったり、という単語が脳内でリフレインした。
(……今のわたくしは初等部のイザベル・エルライン……だから初等部に見られても問題はない……)
必死に自分に言い聞かせてみるが、精神的なダメージは思ったより深かかった。
すぐにショックから立ち直れるはずもなく、イザベルの意識が遠のきかけたとき、がらり、とドアが開いた。
「イザベル様。お待たせしました」
フローリアはなぜか、ジークフリートを後ろに連れてきていた。
「大丈夫か、イザベル。全身ずぶ濡れになったと聞いたが、寒くはないか?」
「え……ええ。大丈夫ですわ。それより、ジークがどうしてここに」
「偶然、フローリアに会ったんだ。それで君のことを聞いて。今日は僕が家まで送ろう。早く体を温めないと」
偶然、出会った。
その言葉を頭で反芻し、イザベルは眉根を寄せる。
(本当に偶然……?)
ルートが確定した今、ヒロインとジークフリートのイベント発生率は高くなっているはずだ。ジークにとっては偶然でも、ゲームによる補正、つまり必然ではないだろうか。
悪役令嬢が直接手を下さなくても、遠くない将来、フローリアとジークフリートは結ばれる。何ら不思議はない、これは決められたシナリオなのだ。
そのはずなのに、イザベルは自分の気持ちを持て余していた。
(……悪役令嬢である限り、ジークのそばにはいられない)
分かりきった事実で、納得したはずの未来なのに、なぜか心が曇っていく。
イザベルの鞄を持ってきてくれたフローリアが、ジークフリートと何かを話している。自分の知らないところで仲良くなっていく二人の姿を見ていられず、イザベルは目をそらした。
フローリアが養護教諭に簡単に事情を話している。白衣を着た女性はまだ若く、ややオーバーに驚いてみせた。
「あらあら、大変! 何か着替えるものを用意しなくちゃ……ちょっと待っていてちょうだい」
イザベルに毛布をかぶせると、そのまま保健室から出て行ってしまう。
密室にフローリアと二人きりにされ、イザベルは困った。まさかこんな展開になるなど、つゆほども想像していなかった。
お互いの緊張で空気が重くなっていくのを感じる。
(き、気まずい……)
先に沈黙を破ったのはフローリアだった。
「立ったままでいるのも何ですから、どうぞおかけください」
「あ、ありがとう……」
勧められるまま、イザベルは近くの丸椅子に座った。
本当は今すぐ逃げ出したい。けれど、確かめておきたいことがある。
「あの。フローリア様は……わたくしのことはご存じ……なの?」
「この学園で、イザベル様を知らない者などいません」
「そう……そうよね」
愚問だった。恥ずかしくてうつむくと、フローリアがつぶやくように言う。
「イザベル様こそ、どうして私の名前を?」
「あなたは有名だもの。入学式から二週間後の転校生。話題性は十分だと思うけど」
「確かに、そうですね」
ゲームでも、ヒロインは異例の時期に転校してくる。
学園中に転校生の噂は瞬く間に広がり、転校の理由にあらゆる憶測が飛び交った。
(会話をするのは今日が初めてだけど、これは……チャンスかもしれない)
イザベルは覚悟を決めて、フローリアを見据えた。
「ねえ。この際だから聞いておきたいのだけど、いいかしら?」
「は、はい。何でしょうか」
フローリアは緊張した面持ちで、次の言葉を待つ。その目をまっすぐ見て、イザベルは長年の疑問をぶつけた。
「わたくしの評判って悪いものばかりなのかしら?」
「え」
「あなたは転校生だから、まだ学園の空気に染まりきっていないでしょう。だから本当のことを教えていただけないかしら」
唖然とするフローリアに気づかず、イザベルは目を伏せて続けた。
「ほら、伯爵令嬢って肩書きのせいで、みんな本当のことは言ってくれないの。どの方も親切に振る舞ってくれるわ。けど、どこかよそよそしいというか。確かに実家の後ろ盾はあるけど、わたくし自身は、そんなに怯えられるようなことをした記憶はないのよね……」
声をかけただけで怯えられる経験は、一度や二度ではない。一体何をしたというのだろう。本人にまるで心当たりがないだけに、心の傷は深くなっていく一方だ。
その苦悩が伝わったのか、フローリアが遠慮がちに答えた。
「あの、噂はそんなに詳しくないですけど。……イザベル様が心配なさっているような内容ばかりではない、と思います」
「そうかしら。わたくし、そんなに怖くないのよ? 本当よ?」
言い募ると、フローリアがかすかに笑った。
「噂は気にする必要ないと思います。イザベル様は大変可愛らしい方だということ、私は今日知りました。みんな、話せばわかってくれますよ」
「そう……そうかしら」
「もちろんです」
力強く肯定され、イザベルは面食らった。つい愚痴を吐き出してしまったが、励まされるとは思っていなかった。
(フローリア様は強い方なのね。それに比べて、わたくしは臆病者だわ……)
本当に聞きたかったことは、ジークフリートとの関係だった。どのくらい好きなのか、どこが好きなのか、聞きたいことはたくさんあるのに聞けなかった。
落ち込んだイザベルを元気づけるためか、フローリアは明るく言う。
「荷物を取ってきましょうか。他に何か入り用のものはありますか?」
「特には……あ、帰りの車を手配しないと」
伯爵令嬢たるイザベルは毎日、自家用車で送迎してもらっている。
いつもは同じ時間に迎えにくるのだが、フローリアの噂を調べるために「今日は遅めに」とサロンの管理人に言付けを頼んでいた。したがって、このままだと待ちぼうけになる。
イザベルは独り言のつもりだったが、すぐに了承の言葉が返ってきた。
「わかりました。お任せください!」
言うや否や、フローリアは踵を返して廊下へと出て行った。
(だ、大丈夫かしら……)
一抹の不安を覚えていると、入れ違いに養護教諭が戻ってきた。
「放課後でなかなか生徒がつかまらなくて、職員室まで走ってきたわ。これぐらいしか用意できなかったのだけど。どう、着られそうかしら?」
そう言って、どこかで調達してきたらしい服を差し出した。イザベルは畳まれた服を広げ、目を丸くした。
「これは……何ですか?」
「ちょっと小さいかもしれないけど、初等部の制服よ。そのまま濡れた制服を着たままよりは、幾分マシだと思うのだけど」
「…………ありがとう、ございます」
この際、背に腹はかえられない。
ベッドのカーテンを閉め切り、制服と一緒に借りたタオルで髪を簡単に乾かす。
幸い、スカートより下の被害は少ない。下着も無事だ。ただし、ブラウスの袖が肌に張り付いていたせいで、脱ぐのに四苦八苦した。
「…………ふう」
イザベルは昔懐かしの制服に袖を通し、自分の姿を見下ろした。
高等部のブレザーから一転、初等部のワンピースに着替えた姿は、どこからどう見ても初等部の生徒だ。とても高等部の生徒には見えない。
強いて言えば、胸のあたりがきついぐらいだ。
だが、これを着こなせるということは、身長が伸びていないという裏づけに等しい。神様は無慈悲だ。なぜ、こんなむごい仕打ちを。
イザベルは沈痛な表情のまま、無言でカーテンから姿を出す。
「あらあら、ぴったり! とても可愛いわ。お持ち帰りしたいくらいね」
ぴったり、という単語が脳内でリフレインした。
(……今のわたくしは初等部のイザベル・エルライン……だから初等部に見られても問題はない……)
必死に自分に言い聞かせてみるが、精神的なダメージは思ったより深かかった。
すぐにショックから立ち直れるはずもなく、イザベルの意識が遠のきかけたとき、がらり、とドアが開いた。
「イザベル様。お待たせしました」
フローリアはなぜか、ジークフリートを後ろに連れてきていた。
「大丈夫か、イザベル。全身ずぶ濡れになったと聞いたが、寒くはないか?」
「え……ええ。大丈夫ですわ。それより、ジークがどうしてここに」
「偶然、フローリアに会ったんだ。それで君のことを聞いて。今日は僕が家まで送ろう。早く体を温めないと」
偶然、出会った。
その言葉を頭で反芻し、イザベルは眉根を寄せる。
(本当に偶然……?)
ルートが確定した今、ヒロインとジークフリートのイベント発生率は高くなっているはずだ。ジークにとっては偶然でも、ゲームによる補正、つまり必然ではないだろうか。
悪役令嬢が直接手を下さなくても、遠くない将来、フローリアとジークフリートは結ばれる。何ら不思議はない、これは決められたシナリオなのだ。
そのはずなのに、イザベルは自分の気持ちを持て余していた。
(……悪役令嬢である限り、ジークのそばにはいられない)
分かりきった事実で、納得したはずの未来なのに、なぜか心が曇っていく。
イザベルの鞄を持ってきてくれたフローリアが、ジークフリートと何かを話している。自分の知らないところで仲良くなっていく二人の姿を見ていられず、イザベルは目をそらした。