悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
 豪華なシャンデリアの下には、深緑の絨毯が敷かれた階段。踏みしめるとわかる上質な絨毯は、高いヒールの音さえも吸収してくれる。
 タキシード姿の老紳士やロングドレスの婦人とすれ違いながら、イザベルはジークフリートとともに指定席へと向かう。
 二階のボックス席は、公爵家専用の席だ。この劇場の運営はオリヴィル公爵家が行っているため、支配人自らが案内してくれる。
 いつもの席に座ると、ジークフリートが独り言のようにつぶやく。

「夜の演目は確か……悲恋をテーマにしたものか」
「永遠のテーマですわね」
「まあ、そうだな。引き裂かれる二人の葛藤と、抗えない運命、すれ違う未来。役者の器が試される演目だ」

 客席の照明が消えて、あたりが暗くなる。ドアもすべて締め切られ、外部からの光も遮断される。
 開演時間だ。緞帳がゆっくり上がり、スポットライトが正面に当てられる。
 映画と違い、オペラが上演されている間の飲食は厳禁。
 ミュージカルのような舞台装置を使った派手な演出はないものの、オペラ歌手の歌唱力や演技力が目を引く。
 オペラグラス越しに見える表情の変化や、華やかな舞台衣装を見ているだけでも楽しい。しかし、オーケストラの生演奏も迫力があり、どんどん物語に引き込まれる。
 やがて、舞台から人がいなくなると、明かりがパッと点く。第一幕と第二幕の小休憩に入ったのだ。

(オペラ歌手は、ぶっ通しで歌い続けるわけだから、休憩も多いのよね)

 合間の休憩に席を立つ人も多く、ジークフリートも颯爽と立ち上がる。
 あらかじめ用意していたのか、ボックス席の奥にあるミニテーブルからバスケットを取って、すぐに戻ってきた。
 なんだろう、とイザベルが顔を近づけると、バスケットを覆っていた布が取り払われる。

「君の口に合うとよいのだが……」

 中身はクッキーだった。丸ではなく四角いクッキーが均一に置かれている。色はベージュに、少し黄色を足したもの。

「あら、今日はお菓子ですか?」
「……チーズ風味のクッキーだ」
「そうなのですか。食べるのが楽しみですわ」

 いつものように受け答えすると、ジークフリートは目をそらしながら言う。

「僕が作ったんだ」
「……え?」
「ジェシカから、君がそういうお菓子が好きだと聞いた。一流品の贈り物も結構だが、手作りの方が気持ちもこめられると思わないのか、と諭された」
「それで作ったのですか? ひとりで?」
「……そうだ……」

 完璧かつ勤勉で知られる公爵令息が、まさかの手作りお菓子を持参。悪戦苦闘する様子を想像し、イザベルは口に手を当てた。

「ふふ、……ふふふっ」
「何がおかしい?」
「いいえ、そうではなくて。ジークの気持ちがうれしくて。……わたくしのために作ってくれたのでしょう?」
「当たり前だろう」

 すねたような横顔に、イザベルは微笑みを絶やさない。これ以上彼の機嫌を損ねないよう、言葉を選んで感謝を伝える。

「今まで頂いたものの中で一番、心に残るプレゼントですわ。食べるのがもったいないくらいです」
「むしろ、食べてもらわねば困る。味は悪くない……はずだ」
「ええ、そうですね。せっかくですから、一緒に食べましょうか」

 一口サイズのクッキーをつまみ、そっと口に運ぶ。上品な甘さと酸味が広がり、隠し味はレモンの果汁かと推察する。

「大変おいしいです。初めて作られたのですか?」
「無論だ。お菓子を作る機会は言うまでもなく、作る予定もなかったのだから」
「努力なされたのですね。家庭用とは思えない、深い味わいですもの。洋菓子店にも負けていないと思いますよ?」

 言いながら、ふと気づく。

(もしかして、サロンで見たお菓子の本は、このクッキーを作るために……)

 心の中にくすぶっていたモヤモヤが晴れ、イザベルはクッキーを一枚取り、婚約者の口元に近づける。
 ジークフリートはクッキーとイザベルを交互に見比べ、怪訝な顔になった。いつもより低い声は慎重に問いかける。

「その手はなんだ?」
「え? だって、ジークの手が汚れるじゃないですか。……ひょっとして、おなかいっぱいでした?」

 手を引っ込めようとすると、やんわり腕をつかまれた。顔を上げると、ジークフリートは観念したようにつぶやく。

「……頂こう」

 なぜか心を無にしたような仏頂面になってしまったが、素直に口を開けるのを見て、そっとクッキーを押し込む。

「ね、ほら。おいしいでしょう?」

 自分が作ったわけではないのに、自慢げに言うイザベルにジークフリートは無言で頷く。よく見れば、その耳はほんのり赤く色づいている。

(このまま、時が止まってしまえばいいのに……)

 婚約者とのなごやかな時間は、あっという間に過ぎていった。
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