悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
 その後、ジェシカ経由で聞いた話によると、フローリアへのやっかみは地味に続いているらしい。ただ、たまたま通りかかったジークフリートやレオンによって、その場を脱していることもすでに数回あるとか。
 イザベルはリビングのソファに身を沈め、ひとり唸る。

「侮りがたし。これがゲーム内補正……」

 察するに偶然助けてくれるのは、好感度が高かったメンバーだろう。この場合、クラウドの出番が少ないことは喜ぶべきか。

「いかがなさいましたか、イザベルお嬢様」

 イザベルが顔を上げると、ティーワゴンでお茶の用意をしていたリシャールと目が合う。今日は燕尾服姿だ。黒のクロスタイに白手袋は、執事の王道ともいえるスタイルである。
 黒ベストの前に留められたチェーンの先には、懐中時計がつながっている。その懐中時計は、昔イザベルの父が買い与えたものだったはずだ。
 リシャールは、カップと同じ薔薇が描かれたティーポットを傾け、紅茶を注ぐ。コトン、とローテーブルにティーカップを置く動作も無駄がない。

(うーん。こうして執事らしい姿を改めて見ると、やっぱりカッコイイかも)

 だが忘れてはいけない。彼は「黒薔薇の執事」だ。この笑顔の下にはブラックな感情が眠っている。寝た子を起こすな、触らぬ神に祟りなし。
 リビングのソファから身を起こし、ソーサーを左手で持ちながら、右手でティーカップの取っ手に指をかける。

「なんでもないわ。試験結果のことを考えていただけよ」

 口をつけると、ミルクティーの優しい味がした。

「試験というと、今回はレオン殿下が一位だったそうですね。お嬢様は三位だったと聞きました」

 学校は別々だというのに、我が家の執事は、相変わらず耳が早い。
 先週は前期学力考査があり、週明けの今日は順位が掲示板に張り出されていた。
 おおかた、イザベルの順位速報についても、執事の情報網とやらで入手したものだろう。
 成績のみならず、体重の微妙な変化についても熟知し、本人の承諾なしにシェフにカロリー相談しているのだから、油断ならない。
 しかし、こういうのは気にした方が負けだ。伯爵令嬢たるもの、いかなる場合においても取り乱してはならない。
 イザベルはこれまで培ってきたポーカーフェイスを装い、言葉を返す。

「学年三位をキープできたのはよかったけど、フローリア様はやっぱりすごいわね。いきなり二位に入り込んだのだもの。びっくりしたわ」
「フローリア様というと、転入生の方ですね。学園の転入試験は難しいと聞きます。さぞ優秀なのでしょう」

 そう、フローリアは二位だった。
 学園内では誰もが驚いていたが、主人公は勤勉家という設定だった。だから、ゲームの知識があるイザベルは、この順位にむしろ納得していた。
 ただ、ゲーム内の選択肢によって順位は変動する仕組みだった。
 記憶が正しければ、試験週間の過ごし方は三パターンから選べたはず。

 一、攻略相手の親密度を上げる
 二、クラスメイトと交友を深める
 三、自宅で試験勉強をする

 イザベルはゲームのしおり機能で、すべての選択肢を試したことがある。
 三を選んだ場合、順位は一位に輝く。学年トップということで、各攻略キャラの評価がわずかに上がる一方で、レオン王子の評価がわずかに下がる。
 一を選んだ場合は、その攻略キャラと試験対策をするのだが、ドキドキして集中できなかったせいで、順位は五位になる。ただし、キャラの親密度は大きく上がる。

(つまり、クラスメイトとの試験勉強を選んだわけね)

 ちなみに、二を選んだときは親密度は変化なしだ。乙女ゲームでいえば、ノーマルエンドにつながる選択肢だ。

「よろしければ、どうぞ」

 視線を下げると、ジュエリーボックスならぬ、チョコレートボックスが目に入る。しかも豪華な三段の詰め合わせになっており、一粒一粒が宝石のようにキラキラしている。
 リシャールを見やると、光り輝くような微笑みが返される。漫画的にいえば、薔薇とキラキラのトーンが背後に散らばっているシーンだろう。

(……さしずめ、これは試験を頑張ったご褒美かしらね)

 生チョコレートの未練が断ち切れないイザベルは生唾を飲み込み、桜を模したチョコレートに手を伸ばす。
 一口食べた瞬間から、芳醇な味わいが広がり、甘美な陶酔に浸る。けれども、世の中には乙女に残酷な事実がある。

「うう……」
「どうなさいました?」
「おいしい……おいしいわ」
「それはよかったです」
「でも、夜遅くに食べさせるなんて……あなた、いい性格してるわね」
「一口や二口、大丈夫ですよ」

 これは悪魔の囁きだ。耳を傾けてはならない。
 イザベルは注意していないと、太りやすい体質なのだ。時計の針は、九時半を過ぎたところだ。
 夜の間食がどれだけおそろしいか、この執事はわかっていないのだろうか。

(くっ……太りにくい人には、この気持ちがわからない)

 リシャールは小言が多いが、基本的に、アメと鞭はアメの部分が多い。いい意味でも悪い意味でも、甘やかされている節がある。
 このお菓子の差し入れなどがそうだ。本人は労いの意味で用意してくれたのだろうが、甘い誘惑を抗う身にもなってほしい。

(はっ……もしや、試されている?)

 これまで何度もこの誘惑に負け、後悔する羽目になってきた。過ちは繰り返してはならない。そう誓ったばかりではないか。
 イザベルは声を絞り出すようにして言った。

「残りは……後日ゆっくり食べるから、取っておいてちょうだい……」
「もうよろしいのですか? まだこんなにあるのに」

 乙女とは、時に本音と逆のことを口にせざるを得ない生き物である。力なく首を横に振り、うわ言のようにつぶやく。

「いいの……もう、じゅうぶん……」

 誘惑を断ち切るため、イザベルは目をつぶる。リシャールの足音が遠のくのを確認し、最近会えていないヒロインのことを考える。

(あのハンカチ事件から、フローリア様とは話せていないのよね。かといって、人目がある場所だとゆっくりできないし。二人っきりで話せる場所、どこかにないかしら)

 学園の見取り図を頭に思い描くが、先ほど見たチョコレートが脳裏に焼きついて離れない。まるで宝石のような、あの美しい見た目は罪だ。

「イザベルお嬢様。今夜は少々肌寒いので、ブランケットをお使いください」
「ありがとう」

 膝元までブランケットを広げると、肌寒さが緩和された。

(もしも、バッドエンドが回避ができなくて、いきなり見た目が老けてしまったら……。実家を出るとき、リシャールは一緒に来てくれるかしら)

 彼がそばにいれば、どれだけ心強いだろう。代々エルライン家に仕える執事の忠誠心を疑うつもりはない。
 とはいえ、イザベル個人への忠誠となると、話は別だ。生涯を尽くして仕えたい、と思われる主人になれているだろうか。

(いや、それはないわね。伯爵令嬢としてダメ出しされ、お菓子のご褒美をもらっているようじゃ、そうなる日は遠い。……たまには、昔みたいに「姉上」って呼んでくれてもいいのに)

 イザベルは家族同然の存在だと思っているのだが、リシャールは違うのだろうか。
 敬称で呼ばれるたび、線引きされているのを感じる。その境界線はどうやったら乗り越えられるのだろうか。
 その晩、いくら悩んでも、その答えは出なかった。
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