悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
男の声は独り言のような口調だったが、ここは話しかけられたと考える方が自然だ。
ため息を押し殺して一瞥すると、長身の紳士がいた。
(……厄介な人につかまってしまったわね)
舞台映えしそうな高い身長に整った顔、そして淑女の心をつかんで離さない藍色の瞳。男性慣れしていない未婚の女性をはじめ、既婚女性さえも、あっさりと籠絡してしまうと噂の伯爵だ。
耳元でささやく声はとびきり甘く、腰砕けになる女性は数知れず。
彼はいつも複数の女性に囲まれているはずだが、一人でいるなんて珍しい日もあるものだ。
「……まあ。ライドリーク伯爵、あなたも招待されていたのですか?」
「つれないですね。あなたと私の関係ではありませんか。どうぞ、ルーウェンとお呼びください」
「いえ、とくに関係はございませんが」
きっぱり否定すると、ライドリーク伯爵は満足そうに口角をつりあげた。
「そういうところが新鮮で、ますます興味を惹かれますね。どうです? 二歳年上の婚約者殿より、六歳年上の私に乗り換えてみませんか。ロマンチックな恋をお約束しますよ」
「数々の浮き世の名を流す伯爵とはつりあいませんもの。謹んでお断りしますわ」
「本当につれないお人だ」
肩をすくめて笑う顔は、こうなることを見越していたような余裕がうかがえた。
美青年と称されるだけあって、赤銅色の前髪を横に払う仕草でさえ、うっかりすると見とれてしまう。とはいえ、無駄にキラキラしているところが、どうも苦手だ。
(紫の薔薇で淑女を口説くことで有名な「紫薔薇の伯爵」の相手なんて、頼まれてもお断りよ。……ああもう、ジェシカが一緒だったらよかったのに)
唯一無二の親友に思いをはせる。彼女は大の男嫌いで有名だ。辛辣な言葉で近寄る男たちをことごとく追っ払ってきた実績がある。
園遊会は彼女も一緒に招待されていたのだが、あいにく家の用事で来られなくなってしまった。イザベルつきの執事見習いも、今日は父親の付き人のためいない。
つまり、自分を守れるのは自分だけだ。
「ああ、そういえば。先ほどから喉が渇いていたのです。伯爵、よろしければお飲み物を取ってきていただけません?」
立食式のテーブルが向こうにある。紳士であれば、淑女の頼みは断れない。
思ったとおり、伯爵は笑顔で快諾してくれた。
「もちろん、喜んで。さっぱりとした飲み物を取ってきましょう」
「お願いいたしますわね」
伯爵が踵を返し、テーブルへと向かう。だが、ふと立ち止まり、こちらへ手を振ってくる。令嬢らしく、微笑とともに手を振り返す。満足したのか、再び歩きだす背中を見て冷や汗が出てきた。
(やっぱり、こちらの魂胆は見抜かれているようね)
すぐに逃げ出さなくてよかった。
逃げ出す隙をうかがっていると、運よく数人の女性グループが伯爵に近づいてくる。そのうち一人が伯爵に向かって声をかけたのを見て、今だ、と決意する。
そろりそろり、と後ろ足で後退し、アーチを抜けて足早にまっすぐと突き進む。
どのくらい歩いただろう。いつのまにか、薔薇園の端の方まで来てしまったらしく、敷地を囲む柵が見えた。
(ここなら、もう大丈夫だと思うけど……さっきから頭が割れそうに痛いわ)
油断した。先ほどまでの曇り空は一変し、いつのまにか、空を覆い尽くしていた雲から太陽がその姿をさらけ出している。
昔からこのまぶしいほどの光が苦手だ。頭がグラグラしてくる。自慢ではないが、長時間外で過ごす場合、日傘をしていないと倒れることもよくある。
ここに専属執事がいたら、今頃きっと小言を聞かされていた頃だろう。
(……とにかく日陰に行かないと)
額に手をあて、どこか日陰の休むところはないかと周囲を見渡す。黄色の薔薇が咲き誇るエリアは庭園の東側だ。記憶が正しければ、近くの池のそばに、ひとやすみできるベンチがあったはず。
重い足取りで目的地へ向かっていると、横の茂みからカサリと音がした。体はだるかったが、念のため気配を消し、音のした方向に近づく。まもなくして、話し声が聞こえた。
「ジークフリート様から、こんなに立派な薔薇の花束をいただけるなんて光栄です」
鈴のような澄んだ声は聞き覚えがある。同じ学園に通っている男爵令嬢だ。確か、名前はフローリア・ルルネ。そして、彼女に花束を差し出していたのは、ジークフリートだった。
(……え?)
なぜ、二人が人目を忍ぶようにして逢い引きをしているのか。世間一般において、その理由は単純明白だ。
彼らが許されざる恋をしているからに他ならない。
フローリアの垂れ目がちな瞳はキラキラと輝き、どう見ても恋をしている目だ。だが熱っぽい眼差しに見つめられても、ジークフリートはそう簡単に揺らがない。
爽やかな笑顔を向け、フローリアが抱きかかえる純白の薔薇を見下ろす。
「そう言ってもらえて、僕も嬉しい。どうか、この薔薇が心の癒やしになってくれるように祈っている」
「もったいないお言葉です」
負けた、と思った。
(わたくしには一輪の薔薇だったのに……)
これは天罰なのかもしれない。婚約者だからプレゼントも当然だ、と思っていた部分がないかと言えば嘘になる。形式だけの関係に甘んじて、婚約者の趣味すら知ろうとしてこなかった。
相手に、本気で好きな女性が他にできる可能性を考えていなかった。
失恋とは違うショックに愕然とする。
猛烈な頭痛に一瞬、視界が歪んだ。遠くで、懐かしい音楽が奏でられている。それが耳鳴りなのか、幻聴なのかすらわからない。
(ジークフリート様には大切な女性ができてしまったのね……)
燦々と照りつける初夏の日差しの下、意識はそこでプツリと途絶えた。倒れる最中、ジークフリートと目が合った気がした。
ため息を押し殺して一瞥すると、長身の紳士がいた。
(……厄介な人につかまってしまったわね)
舞台映えしそうな高い身長に整った顔、そして淑女の心をつかんで離さない藍色の瞳。男性慣れしていない未婚の女性をはじめ、既婚女性さえも、あっさりと籠絡してしまうと噂の伯爵だ。
耳元でささやく声はとびきり甘く、腰砕けになる女性は数知れず。
彼はいつも複数の女性に囲まれているはずだが、一人でいるなんて珍しい日もあるものだ。
「……まあ。ライドリーク伯爵、あなたも招待されていたのですか?」
「つれないですね。あなたと私の関係ではありませんか。どうぞ、ルーウェンとお呼びください」
「いえ、とくに関係はございませんが」
きっぱり否定すると、ライドリーク伯爵は満足そうに口角をつりあげた。
「そういうところが新鮮で、ますます興味を惹かれますね。どうです? 二歳年上の婚約者殿より、六歳年上の私に乗り換えてみませんか。ロマンチックな恋をお約束しますよ」
「数々の浮き世の名を流す伯爵とはつりあいませんもの。謹んでお断りしますわ」
「本当につれないお人だ」
肩をすくめて笑う顔は、こうなることを見越していたような余裕がうかがえた。
美青年と称されるだけあって、赤銅色の前髪を横に払う仕草でさえ、うっかりすると見とれてしまう。とはいえ、無駄にキラキラしているところが、どうも苦手だ。
(紫の薔薇で淑女を口説くことで有名な「紫薔薇の伯爵」の相手なんて、頼まれてもお断りよ。……ああもう、ジェシカが一緒だったらよかったのに)
唯一無二の親友に思いをはせる。彼女は大の男嫌いで有名だ。辛辣な言葉で近寄る男たちをことごとく追っ払ってきた実績がある。
園遊会は彼女も一緒に招待されていたのだが、あいにく家の用事で来られなくなってしまった。イザベルつきの執事見習いも、今日は父親の付き人のためいない。
つまり、自分を守れるのは自分だけだ。
「ああ、そういえば。先ほどから喉が渇いていたのです。伯爵、よろしければお飲み物を取ってきていただけません?」
立食式のテーブルが向こうにある。紳士であれば、淑女の頼みは断れない。
思ったとおり、伯爵は笑顔で快諾してくれた。
「もちろん、喜んで。さっぱりとした飲み物を取ってきましょう」
「お願いいたしますわね」
伯爵が踵を返し、テーブルへと向かう。だが、ふと立ち止まり、こちらへ手を振ってくる。令嬢らしく、微笑とともに手を振り返す。満足したのか、再び歩きだす背中を見て冷や汗が出てきた。
(やっぱり、こちらの魂胆は見抜かれているようね)
すぐに逃げ出さなくてよかった。
逃げ出す隙をうかがっていると、運よく数人の女性グループが伯爵に近づいてくる。そのうち一人が伯爵に向かって声をかけたのを見て、今だ、と決意する。
そろりそろり、と後ろ足で後退し、アーチを抜けて足早にまっすぐと突き進む。
どのくらい歩いただろう。いつのまにか、薔薇園の端の方まで来てしまったらしく、敷地を囲む柵が見えた。
(ここなら、もう大丈夫だと思うけど……さっきから頭が割れそうに痛いわ)
油断した。先ほどまでの曇り空は一変し、いつのまにか、空を覆い尽くしていた雲から太陽がその姿をさらけ出している。
昔からこのまぶしいほどの光が苦手だ。頭がグラグラしてくる。自慢ではないが、長時間外で過ごす場合、日傘をしていないと倒れることもよくある。
ここに専属執事がいたら、今頃きっと小言を聞かされていた頃だろう。
(……とにかく日陰に行かないと)
額に手をあて、どこか日陰の休むところはないかと周囲を見渡す。黄色の薔薇が咲き誇るエリアは庭園の東側だ。記憶が正しければ、近くの池のそばに、ひとやすみできるベンチがあったはず。
重い足取りで目的地へ向かっていると、横の茂みからカサリと音がした。体はだるかったが、念のため気配を消し、音のした方向に近づく。まもなくして、話し声が聞こえた。
「ジークフリート様から、こんなに立派な薔薇の花束をいただけるなんて光栄です」
鈴のような澄んだ声は聞き覚えがある。同じ学園に通っている男爵令嬢だ。確か、名前はフローリア・ルルネ。そして、彼女に花束を差し出していたのは、ジークフリートだった。
(……え?)
なぜ、二人が人目を忍ぶようにして逢い引きをしているのか。世間一般において、その理由は単純明白だ。
彼らが許されざる恋をしているからに他ならない。
フローリアの垂れ目がちな瞳はキラキラと輝き、どう見ても恋をしている目だ。だが熱っぽい眼差しに見つめられても、ジークフリートはそう簡単に揺らがない。
爽やかな笑顔を向け、フローリアが抱きかかえる純白の薔薇を見下ろす。
「そう言ってもらえて、僕も嬉しい。どうか、この薔薇が心の癒やしになってくれるように祈っている」
「もったいないお言葉です」
負けた、と思った。
(わたくしには一輪の薔薇だったのに……)
これは天罰なのかもしれない。婚約者だからプレゼントも当然だ、と思っていた部分がないかと言えば嘘になる。形式だけの関係に甘んじて、婚約者の趣味すら知ろうとしてこなかった。
相手に、本気で好きな女性が他にできる可能性を考えていなかった。
失恋とは違うショックに愕然とする。
猛烈な頭痛に一瞬、視界が歪んだ。遠くで、懐かしい音楽が奏でられている。それが耳鳴りなのか、幻聴なのかすらわからない。
(ジークフリート様には大切な女性ができてしまったのね……)
燦々と照りつける初夏の日差しの下、意識はそこでプツリと途絶えた。倒れる最中、ジークフリートと目が合った気がした。