悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
行く当てのないイザベルの足は、三階の廊下で立ち止まる。
美術教室の前を通り過ぎたところで、ドアが開いていた視聴覚教室に誘われるようにして入った。
映画用のスクリーンが見やすいよう、机は楕円形に配置されている。外との光を遮るため、暗幕で覆われた室内はほどよく暗い。教室の奥まで歩くと、暗闇が濃くなった。
イザベルは床まで覆う暗幕をめくり、窓際に立つ。すがすがしい青空にはひつじ雲。青いキャンパスを泳ぐひつじの群は、雨の予兆でもある。
(こうなることは、わかっていたはずなのに……)
親が決めた許嫁のため、イザベルはジークフリート自身に興味はなかった。
けれど、現実は少し違う。
興味がないフリをしていたが、内面ではジークフリートへの好意は年々募っていた。真面目で責任感があるところも、気の強いイザベルをさりげなくフォローしてくれるところも、すべてを好ましく思っていた。
そして、ヒロインの登場で自分の気持ちを自覚したイザベルは、好きな人を奪われないように、ありとあらゆる手を使ってヒロインを蹴落とそうとする。
次第にエスカレートしていく行為を止める者はおらず、結果、婚約破棄を叩きつけられる。
(「わたし」はイザベルだけど、本当のイザベルじゃない)
なぜなら、前世の記憶を思い出した今、一番ときめく相手はクラウドだからだ。
悲しくなる必要はない。そう自分に言い聞かせるが、なぜだか心がもやもやとする。スッキリとしない。
まるで出口がない迷宮に迷い込んだみたいだった。自分の感情との折り合いがつかない。
(応援……しないといけないのに……)
イザベルが思考の渦におぼれかけていたとき、第三者の声が耳に響く。
「こんなところにお呼びだてして、申し訳ございません」
聞き覚えのある声がして、体に緊張が走る。視聴覚教室に入ってきたのは複数の足音だった。
「いいえ、リシャール様が謝る必要はありません。お互い、誰かに聞かれたら困りますものね」
「恐縮です」
口調といい、低めの声のトーンといい、どう聞いてもリシャールの声だ。
(一体、リシャールが高等部に何の用……?)
彼らの表情が見えないのがもどかしい。
もし暗幕の隙間からのぞけば、外のまぶしい光が室内に差し込み、目立ってしまうだろう。
イザベルは息を殺して、暗幕の裏側から耳をそば立てる。
「最近のフローリア様は、以前にも増してジークフリート様と懇意にされていると聞きます。そのことに、イザベル様もだいぶ胸を痛めておられるご様子」
「これだから、分をわきまえない庶民は嫌ですわ」
厳しい口調だけど、猫なで声のような少し高い声。記憶が正しければ、最近どこかで同じ声を聞いたはず。
(でもどこで……あっ! ナタリア様の取り巻きの!)
ハンカチ事件でも、渡り廊下の立ちふさがり事件でも、ナタリアのそばにいた女生徒だ。
「ナタリア様との橋渡しをお願いできるのは、あなた方だけ。特に、ラミカ様には感謝しております。フローリア様のクラスメイトとして、いろいろ助けていただいていますし」
「いいえ。私など、知っている情報をお伝えしているだけですから……」
緊張しているのか、言葉尻が弱々しい。
(ナタリア派には下級生もいたわよね。……となると、あの子かしら)
取り巻きにいる下級生はひとりだけだった。
ぬばたまの黒髪ロングストレートを思い浮かべる。確か、知的な眼鏡をかけていたインテリ系女子だったはずだ。どうやら外見どおりに、おとなしい性格らしい。
(それにしても、リシャールがナタリア派と接触しているなんて……嫌な予感しかしないんだけど)
だが当の本人を置いてきぼりにして、話は盛り上がっていく。
「私たちにお任せください。イザベル様の味方はたくさんいます」
「ありがとうございます。皆様が力を貸してくださり、お嬢様もお喜びになるでしょう。……ただ、この件はくれぐれもご内密にお願いいたします。大っぴらにイザベル様のご指示だとわかれば、主人の立場が悪くなりますので」
「もちろんですわ。これは、学園の秩序のためですもの。その一環として、フローリア様に注意をなさるよう、皆様にお願いするだけです」
果たして、それは文字どおりの注意なのか。彼女が口にする「お願い」は、貴族派への通達に等しいものだろう。ナタリア派からの通達ともなれば、それだけの強制力を持っている。
「私はなかなか高等部に出入りができませんから、とても助かります」
決定的な言葉が聞こえ、イザベルは暗幕内に身を潜めたまま、口元を両手で覆う。
(真犯人を突き止めてしまった……。もし、ここで聞き耳を立てていたのがバレたら……口封じ?)
そんなことあるわけない、と頭の中で否定するが、リシャールならやりかねない。リシャールの攻略に失敗したときのバットエンドを思い出し、イザベルは背筋が冷たくなった。彼は、目的のためなら手段を選ばない男だ。
(けど、一体いつから? いつから裏切られていたの……?)
黒幕の正体はリシャール。主人の噂を陰で操っていた人物。だが同時に、イザベル専属執事としてずっと身近にいた、家族同然の存在でもある。
信頼関係がもろくも崩れ去っていく瞬間、まるで世界が止まったようだった。音がすべて遮断され、呼吸すらままならない。
イザベルの耳には、もう彼らの会話は頭に入ってこなかった。
美術教室の前を通り過ぎたところで、ドアが開いていた視聴覚教室に誘われるようにして入った。
映画用のスクリーンが見やすいよう、机は楕円形に配置されている。外との光を遮るため、暗幕で覆われた室内はほどよく暗い。教室の奥まで歩くと、暗闇が濃くなった。
イザベルは床まで覆う暗幕をめくり、窓際に立つ。すがすがしい青空にはひつじ雲。青いキャンパスを泳ぐひつじの群は、雨の予兆でもある。
(こうなることは、わかっていたはずなのに……)
親が決めた許嫁のため、イザベルはジークフリート自身に興味はなかった。
けれど、現実は少し違う。
興味がないフリをしていたが、内面ではジークフリートへの好意は年々募っていた。真面目で責任感があるところも、気の強いイザベルをさりげなくフォローしてくれるところも、すべてを好ましく思っていた。
そして、ヒロインの登場で自分の気持ちを自覚したイザベルは、好きな人を奪われないように、ありとあらゆる手を使ってヒロインを蹴落とそうとする。
次第にエスカレートしていく行為を止める者はおらず、結果、婚約破棄を叩きつけられる。
(「わたし」はイザベルだけど、本当のイザベルじゃない)
なぜなら、前世の記憶を思い出した今、一番ときめく相手はクラウドだからだ。
悲しくなる必要はない。そう自分に言い聞かせるが、なぜだか心がもやもやとする。スッキリとしない。
まるで出口がない迷宮に迷い込んだみたいだった。自分の感情との折り合いがつかない。
(応援……しないといけないのに……)
イザベルが思考の渦におぼれかけていたとき、第三者の声が耳に響く。
「こんなところにお呼びだてして、申し訳ございません」
聞き覚えのある声がして、体に緊張が走る。視聴覚教室に入ってきたのは複数の足音だった。
「いいえ、リシャール様が謝る必要はありません。お互い、誰かに聞かれたら困りますものね」
「恐縮です」
口調といい、低めの声のトーンといい、どう聞いてもリシャールの声だ。
(一体、リシャールが高等部に何の用……?)
彼らの表情が見えないのがもどかしい。
もし暗幕の隙間からのぞけば、外のまぶしい光が室内に差し込み、目立ってしまうだろう。
イザベルは息を殺して、暗幕の裏側から耳をそば立てる。
「最近のフローリア様は、以前にも増してジークフリート様と懇意にされていると聞きます。そのことに、イザベル様もだいぶ胸を痛めておられるご様子」
「これだから、分をわきまえない庶民は嫌ですわ」
厳しい口調だけど、猫なで声のような少し高い声。記憶が正しければ、最近どこかで同じ声を聞いたはず。
(でもどこで……あっ! ナタリア様の取り巻きの!)
ハンカチ事件でも、渡り廊下の立ちふさがり事件でも、ナタリアのそばにいた女生徒だ。
「ナタリア様との橋渡しをお願いできるのは、あなた方だけ。特に、ラミカ様には感謝しております。フローリア様のクラスメイトとして、いろいろ助けていただいていますし」
「いいえ。私など、知っている情報をお伝えしているだけですから……」
緊張しているのか、言葉尻が弱々しい。
(ナタリア派には下級生もいたわよね。……となると、あの子かしら)
取り巻きにいる下級生はひとりだけだった。
ぬばたまの黒髪ロングストレートを思い浮かべる。確か、知的な眼鏡をかけていたインテリ系女子だったはずだ。どうやら外見どおりに、おとなしい性格らしい。
(それにしても、リシャールがナタリア派と接触しているなんて……嫌な予感しかしないんだけど)
だが当の本人を置いてきぼりにして、話は盛り上がっていく。
「私たちにお任せください。イザベル様の味方はたくさんいます」
「ありがとうございます。皆様が力を貸してくださり、お嬢様もお喜びになるでしょう。……ただ、この件はくれぐれもご内密にお願いいたします。大っぴらにイザベル様のご指示だとわかれば、主人の立場が悪くなりますので」
「もちろんですわ。これは、学園の秩序のためですもの。その一環として、フローリア様に注意をなさるよう、皆様にお願いするだけです」
果たして、それは文字どおりの注意なのか。彼女が口にする「お願い」は、貴族派への通達に等しいものだろう。ナタリア派からの通達ともなれば、それだけの強制力を持っている。
「私はなかなか高等部に出入りができませんから、とても助かります」
決定的な言葉が聞こえ、イザベルは暗幕内に身を潜めたまま、口元を両手で覆う。
(真犯人を突き止めてしまった……。もし、ここで聞き耳を立てていたのがバレたら……口封じ?)
そんなことあるわけない、と頭の中で否定するが、リシャールならやりかねない。リシャールの攻略に失敗したときのバットエンドを思い出し、イザベルは背筋が冷たくなった。彼は、目的のためなら手段を選ばない男だ。
(けど、一体いつから? いつから裏切られていたの……?)
黒幕の正体はリシャール。主人の噂を陰で操っていた人物。だが同時に、イザベル専属執事としてずっと身近にいた、家族同然の存在でもある。
信頼関係がもろくも崩れ去っていく瞬間、まるで世界が止まったようだった。音がすべて遮断され、呼吸すらままならない。
イザベルの耳には、もう彼らの会話は頭に入ってこなかった。