悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
声は震えてはいたが、その単語は耳にくっきりと残った。
(誘拐……ですって……?)
単語の意味を反芻し、イザベルは凍りついた。
とっさに反応ができずにいると、ラミカが言いにくそうに口を開いた。
「それが……あの……」
しかし、それきり言葉が途切れてしまう。彼女も混乱しているのだ。無理もないと思う。現に、イザベルも目の前の現実を飲み込めないでいる。
(待って、ちょっと待って……。ヒロインの誘拐はクラウドルート限定イベントだったはず。今はジークルートなのに……?)
混乱している主人の代わりに、リシャールが詳しい説明を求める。
「誘拐とはどういうことです? 犯人からなにか要求があったのですか?」
「彼らは……ルルネ商会に恨みがあるみたいで……。大旦那に五百万ミラを用意するように伝えろと。日時と場所は追って伝えると……」
「そうですか。犯人は、さらわれた彼女と面識があったのでしょうか?」
少し考えるような間が空いて、ラミカは首を横に振った。
「知り合いではないと思います。逆恨みのような言動をしていましたし、フローリアさんのことも名前しか知らなかったようです。ひょっとしたら、取り次ぎのとき、店内で名乗っていたのを聞いていたのかもしれません」
「それで今、フローリア様は?」
「……わかりません。彼女は自分から人質になって、私を解放するように犯人に求めました。私は目隠しをされて、路地裏に連れて行かれて。合図の後、振り返ったらそこには誰もいませんでした」
そのときの恐怖心がまだ残っているのだろう。ラミカは自分の手をぎゅっと重ね合わせて、肩を小刻みに震わせた。
イザベルは同情の瞳を向けたが、リシャールは淡々と質問を続けた。
「犯人の人数はわかりますか?」
「二人組の男です。一人は細身の男、もう一人は……傭兵のような大柄の男でした。ただ、二人とも覆面をしていたので、顔はわかりません」
「なるほど。ちなみにスカートの裾に刃物で切られたような跡がありますが、もしや犯人と乱闘になったのですか」
静かに指摘する声に驚いて、ラミカの制服を注視する。遠目ではわからなかったが、確かに縦に浅い切り込みがある。
「それ、血は出ていないの?」
イザベルがおそるおそる尋ねると、ラミカは首をこてんと傾げた。それから膝下のスカートの裾を少しめくり、焦げ茶のストッキングがあらわになる。
リシャールがパッと顔を背けたのを横目で見て、イザベルは顔を近づけてストッキングに伝線が入っていないことを確認する。
「大丈夫そうね」
「少しかすっただけですので……」
イザベルは曲げていた膝を伸ばして立ち上がる。
スカートの裾を払っていると、肩口にリシャールの吐息がかかる。彼は声のボリュームを極力抑え、囁くように言う。
「お嬢様。とにかく、まずは学園に戻りましょう」
「……そうね」
ラミカは自分だけ逃れてきた負い目からか、顔色が悪いままだ。
(保健室で休んでもらうとしても、事情聴取は早い方がいいわよね)
捜索範囲を絞るためにも、彼女の口から、犯行当時の詳しい状況を証言してもらわねばならない。
すでにシナリオは狂い始めている。監禁場所もゲームと違う可能性がある。
(今は本当に白薔薇ルート? それとも紅薔薇ルートなの?)
どちらにせよ、このままではヒロインの身が危ない。攻略ルートの行方は気にかかるが、まずはフローリアの安全を確保してからだ。
*
リシャールが近くの店内の電話を借りて、各方面に連絡を行っている間、イザベルはラミカに寄り添って待っていた。
やがて、エルライン家から迎えの車が到着し、学園に向かう。
事前に大まかな事情を学園にも伝えていたせいか、校門前には数人の人影があった。ドアが開くと、外から手が差し出される。
しかし、リシャールと思っていた手は頼もしく、車から降りると意外な人物がそこにいた。
「え、ジークフリート様……? どうしてここに」
「音楽鑑賞会では、オリヴィル家のお抱え楽団にも打診が来てな。スケジュールや報酬の調整のために、僕も会議に呼ばれていた」
「そうだったのですか……」
ちらりと後ろを見やると、ラミカがリシャールの手を借りて車を降りているところだった。
「イザベル……」
地を這うような声に驚いて振り向く。そこには眉を寄せたクラウドが立っていた。
「ねえ、フローリアがさらわれたって本当?」
「クラウド……。どうか落ち着いて聞いて」
「うん」
機械人形のように頷く姿からは生気が感じられない。
焦点が合っていないような顔に心配を募らせる。しかし、イザベルが今できることは、彼が知りたがっている事実を伝えることだけだ。
「フローリア様は、身代金目的で誘拐されたみたいなの」
「身代金……」
「ルルネ商会に恨みがある人たちが、たまたま居合わせたフローリア様をさらったらしいわ。だから、金銭の受け渡しまでは彼女は無事のはずよ」
絶対とは言い切れないものの、おそらく、すぐに生命が脅かされる危険はない。
そのことが伝わったのか、クラウドが盛大なため息をつく。
「そっ……かぁ」
「少しは安心した?」
「うん……そうだね。ごめん、心配かけたね」
「い、いえ」
困ったような笑顔を向けるのは反則だ。とっさに顔を背けると、横にいたジークフリートと視線がぶつかる。
なにかを訴えるようにジッと見つめられるが、言葉を口にしてくれないと伝わらない。困り果てていると、気を取り直したクラウドがよし、と小さくつぶやく。
「うだうだ考えていても始まらないし、俺はフローリアの実家に行ってくるよ。今後の交渉も気になるし」
クラウドは周りにいた生徒に指示を出し、リシャールにもラミカを保健室に連れていくように頼んでいた。
(はっ……このままじゃ、クラウドが行ってしまう……!)
彼を引き止めなくては。クラウドが救出に行ったら、ジークフリートの出番がなくなる。そうなれば、最速でバッドエンドを迎える可能性が高い。
危機感を募らせたイザベルは、クラウドとジークフリートを交互に見やり、声を張り上げる。
「それでしたら、ジークも行くべきですわ」
「……は?」
「大切ならば尚のこと、あなたが助けに行くべきです」
白薔薇ルートであれば、助けに行くのは攻略キャラでなければおかしい。
しかし、彼らに乙女ゲームの事情など理解できるはずもない。その証拠に、ジークフリートは困惑した表情を浮かべている。
(だって……ジークはフローリア様が好きなのでしょう?)
声にならない言葉を飲み込んで目で訴える。ところが、彼は首をゆっくり横に振った。
「フローリアのことは心配している。だが、僕は君のそばを離れるわけにはいかない。薄情と言われても、不安そうなイザベルを置いてはいけない」
「……え……」
予想の斜め上の答えが返ってきて、不覚にも呆けてしまった。反応ができずに固まっていると、クラウドがぽんと肩に手を置く。
「イザベル。フローリアのことは俺に任せて」
「ク、クラウド……でも」
「たとえ幼なじみとしか見られていなくても、彼女は俺にとって特別な人だから。大丈夫、ちゃんと無事に戻ってくるよ」
フラグが立つような言動はやめてほしい、とは言えず、イザベルは渋々同意した。
「わかりましたわ。でも、無理はなさらないで」
クラウドは頷くと、時間が惜しいとばかりに小走りで去っていく。だんだんと、その背中が小さくなっていく。
つい送り出してしまったが、本当に良かったのだろうか。とはいえ、シナリオが狂った今、どれが正解かもわからない。
(フローリア様……どうか無事でいて)
見上げた空は、紅葉が散ったように真っ赤に染まっていた。
(誘拐……ですって……?)
単語の意味を反芻し、イザベルは凍りついた。
とっさに反応ができずにいると、ラミカが言いにくそうに口を開いた。
「それが……あの……」
しかし、それきり言葉が途切れてしまう。彼女も混乱しているのだ。無理もないと思う。現に、イザベルも目の前の現実を飲み込めないでいる。
(待って、ちょっと待って……。ヒロインの誘拐はクラウドルート限定イベントだったはず。今はジークルートなのに……?)
混乱している主人の代わりに、リシャールが詳しい説明を求める。
「誘拐とはどういうことです? 犯人からなにか要求があったのですか?」
「彼らは……ルルネ商会に恨みがあるみたいで……。大旦那に五百万ミラを用意するように伝えろと。日時と場所は追って伝えると……」
「そうですか。犯人は、さらわれた彼女と面識があったのでしょうか?」
少し考えるような間が空いて、ラミカは首を横に振った。
「知り合いではないと思います。逆恨みのような言動をしていましたし、フローリアさんのことも名前しか知らなかったようです。ひょっとしたら、取り次ぎのとき、店内で名乗っていたのを聞いていたのかもしれません」
「それで今、フローリア様は?」
「……わかりません。彼女は自分から人質になって、私を解放するように犯人に求めました。私は目隠しをされて、路地裏に連れて行かれて。合図の後、振り返ったらそこには誰もいませんでした」
そのときの恐怖心がまだ残っているのだろう。ラミカは自分の手をぎゅっと重ね合わせて、肩を小刻みに震わせた。
イザベルは同情の瞳を向けたが、リシャールは淡々と質問を続けた。
「犯人の人数はわかりますか?」
「二人組の男です。一人は細身の男、もう一人は……傭兵のような大柄の男でした。ただ、二人とも覆面をしていたので、顔はわかりません」
「なるほど。ちなみにスカートの裾に刃物で切られたような跡がありますが、もしや犯人と乱闘になったのですか」
静かに指摘する声に驚いて、ラミカの制服を注視する。遠目ではわからなかったが、確かに縦に浅い切り込みがある。
「それ、血は出ていないの?」
イザベルがおそるおそる尋ねると、ラミカは首をこてんと傾げた。それから膝下のスカートの裾を少しめくり、焦げ茶のストッキングがあらわになる。
リシャールがパッと顔を背けたのを横目で見て、イザベルは顔を近づけてストッキングに伝線が入っていないことを確認する。
「大丈夫そうね」
「少しかすっただけですので……」
イザベルは曲げていた膝を伸ばして立ち上がる。
スカートの裾を払っていると、肩口にリシャールの吐息がかかる。彼は声のボリュームを極力抑え、囁くように言う。
「お嬢様。とにかく、まずは学園に戻りましょう」
「……そうね」
ラミカは自分だけ逃れてきた負い目からか、顔色が悪いままだ。
(保健室で休んでもらうとしても、事情聴取は早い方がいいわよね)
捜索範囲を絞るためにも、彼女の口から、犯行当時の詳しい状況を証言してもらわねばならない。
すでにシナリオは狂い始めている。監禁場所もゲームと違う可能性がある。
(今は本当に白薔薇ルート? それとも紅薔薇ルートなの?)
どちらにせよ、このままではヒロインの身が危ない。攻略ルートの行方は気にかかるが、まずはフローリアの安全を確保してからだ。
*
リシャールが近くの店内の電話を借りて、各方面に連絡を行っている間、イザベルはラミカに寄り添って待っていた。
やがて、エルライン家から迎えの車が到着し、学園に向かう。
事前に大まかな事情を学園にも伝えていたせいか、校門前には数人の人影があった。ドアが開くと、外から手が差し出される。
しかし、リシャールと思っていた手は頼もしく、車から降りると意外な人物がそこにいた。
「え、ジークフリート様……? どうしてここに」
「音楽鑑賞会では、オリヴィル家のお抱え楽団にも打診が来てな。スケジュールや報酬の調整のために、僕も会議に呼ばれていた」
「そうだったのですか……」
ちらりと後ろを見やると、ラミカがリシャールの手を借りて車を降りているところだった。
「イザベル……」
地を這うような声に驚いて振り向く。そこには眉を寄せたクラウドが立っていた。
「ねえ、フローリアがさらわれたって本当?」
「クラウド……。どうか落ち着いて聞いて」
「うん」
機械人形のように頷く姿からは生気が感じられない。
焦点が合っていないような顔に心配を募らせる。しかし、イザベルが今できることは、彼が知りたがっている事実を伝えることだけだ。
「フローリア様は、身代金目的で誘拐されたみたいなの」
「身代金……」
「ルルネ商会に恨みがある人たちが、たまたま居合わせたフローリア様をさらったらしいわ。だから、金銭の受け渡しまでは彼女は無事のはずよ」
絶対とは言い切れないものの、おそらく、すぐに生命が脅かされる危険はない。
そのことが伝わったのか、クラウドが盛大なため息をつく。
「そっ……かぁ」
「少しは安心した?」
「うん……そうだね。ごめん、心配かけたね」
「い、いえ」
困ったような笑顔を向けるのは反則だ。とっさに顔を背けると、横にいたジークフリートと視線がぶつかる。
なにかを訴えるようにジッと見つめられるが、言葉を口にしてくれないと伝わらない。困り果てていると、気を取り直したクラウドがよし、と小さくつぶやく。
「うだうだ考えていても始まらないし、俺はフローリアの実家に行ってくるよ。今後の交渉も気になるし」
クラウドは周りにいた生徒に指示を出し、リシャールにもラミカを保健室に連れていくように頼んでいた。
(はっ……このままじゃ、クラウドが行ってしまう……!)
彼を引き止めなくては。クラウドが救出に行ったら、ジークフリートの出番がなくなる。そうなれば、最速でバッドエンドを迎える可能性が高い。
危機感を募らせたイザベルは、クラウドとジークフリートを交互に見やり、声を張り上げる。
「それでしたら、ジークも行くべきですわ」
「……は?」
「大切ならば尚のこと、あなたが助けに行くべきです」
白薔薇ルートであれば、助けに行くのは攻略キャラでなければおかしい。
しかし、彼らに乙女ゲームの事情など理解できるはずもない。その証拠に、ジークフリートは困惑した表情を浮かべている。
(だって……ジークはフローリア様が好きなのでしょう?)
声にならない言葉を飲み込んで目で訴える。ところが、彼は首をゆっくり横に振った。
「フローリアのことは心配している。だが、僕は君のそばを離れるわけにはいかない。薄情と言われても、不安そうなイザベルを置いてはいけない」
「……え……」
予想の斜め上の答えが返ってきて、不覚にも呆けてしまった。反応ができずに固まっていると、クラウドがぽんと肩に手を置く。
「イザベル。フローリアのことは俺に任せて」
「ク、クラウド……でも」
「たとえ幼なじみとしか見られていなくても、彼女は俺にとって特別な人だから。大丈夫、ちゃんと無事に戻ってくるよ」
フラグが立つような言動はやめてほしい、とは言えず、イザベルは渋々同意した。
「わかりましたわ。でも、無理はなさらないで」
クラウドは頷くと、時間が惜しいとばかりに小走りで去っていく。だんだんと、その背中が小さくなっていく。
つい送り出してしまったが、本当に良かったのだろうか。とはいえ、シナリオが狂った今、どれが正解かもわからない。
(フローリア様……どうか無事でいて)
見上げた空は、紅葉が散ったように真っ赤に染まっていた。