悪役令嬢は執事見習いに宣戦布告される
 しっかり味わってから、残りのクリームパンをほおばる。アーモンドスライスが載っており、いいアクセントになっている。ほのかに温かく、とろっとしたカスタードクリームに入ったバニラビーンズもいい仕事をしている。
 シンプルながらにおいしい一品だ。お土産に何個か買いたいほどだったが、今は他にやるべきことが残っている。
 ローブに散ったパイ生地のかけらを手でぱんぱんと払い、すっくと立つ。

(空腹の心配もなくなったし、クラウドを探さなくっちゃ!)

 商店街をしばらく歩いたところで、ルルネ商会の看板を見つけた。大きなガラス張りのため、遠目からでも中の様子がよく見える。一階は受付と応接スペースで、仕事用のスペースは二階と三階にあるようだ。
 ふと、イザベルは自分の格好を見下ろした。
 上質な生地を使っているが、いかせん丈が長めなので、ドレスもすっぽり隠れている。フードも被っているため、完全に怪しい人にしか見えない。

(うーん。ローブを着ていたら、かえって怪しまれそうね……)

 背に腹は替えられない。聞き込むとしても、見た目は大事だ。急いでローブを脱ぎ、腕に抱える。
 簡単に身だしなみをチェックしてから深呼吸し、ドクドクと忙しない心臓の音をなだめる。
 ゆっくりとドアを開くと、真正面の受付にいる女性がにこりと微笑む。
 受付の女性は二人。いかにもベテランといった年配の女性と、二十代前半と思しき女性だ。

「あの、フローリア様の誘拐事件があったと聞いて……昨日、ここにクラウドが来ませんでしたか?」

 ひそひそと問いかけると、ベテランの女性が反応した。

「……ああ、彼なら取り引き場所に向かったわよ。お嬢様の誘拐を聞いた大旦那様がお倒れになって、代理人として名乗り出たらしいわ」
「取り引き場所はどこですか?」

 身を乗り出して尋ねると、受付嬢は首を横に振った。

「どうも、憲兵に知らせたら娘の命はないって書かれていたらしくて。彼以外は知らないのよ。その手紙も彼が持っていったらしいし」
「……そうですか。ありがとうございました」

 一礼をしてから建物を出る。数歩進んで、路地裏に身をひそませる。
 腕に抱えたローブをぎゅっと抱きしめる。

(クラウドと合流できれば、なんとかなると思っていたけれど、当てが外れたわ。わざわざ危険を冒してまで来たっていうのに……。これから、どうすれば……)

 帰ったところで、こっぴどく叱られるだけだ。ゲームなら、イベントが起きて選択肢を選ぶだけでよかった。
 けれど、今はそんな便利な案内機能はない。
 完全に詰んだ。暗鬱とした気分を持て余しながら、ふらふらと歩く。
 城壁に沿って歩いていると、ふと視界に赤色がちらつく。視線を定めれば、階段の上から、赤い球体がころころと転がっていく。

(あれは……林檎? なんでこんなところに……)

 出所を探すと、階段をゆっくりと歩く老婆の姿があった。その手元には果物が入った紙袋がある。こぼれ落ちそうなほど、ぎゅうぎゅうに荷物が詰めこまれているせいで、彼女が階段をのぼるたび、上部がぐらついている。
 イザベルは転がった林檎をつかみ、早足で階段を駆け上がる。

「ねえ、おばあさん! これってあなたの落とし物じゃない?」

 手元を見せると、振り返った老婆が目を見張る。林檎を受け取った手はしわだらけで、かすれた声が返る。

「……ああ、すまないね」
「階段をのぼるときは気をつけてね。ところで、黒髪に黒縁眼鏡をかけた男の人を見なかった? 年齢はわたくしと同じで、十六歳なんだけど」

 だめ元で尋ねると、老婆は無遠慮にイザベルを眺めた。頭の先から靴まで観察するように見つめられ、ローブを脱いだまま話しかけたのは失敗だったか、とたじろぐ。
 彼女の探るような瞳がイザベルの顔に固定される。
 なぜか、目がそらせない。
 澄んだ水底のような青い瞳が向けられて、思わず息を詰める。心を読まれているような、落ち着かない思いに駆られていると、さっきより明瞭な声が響く。

「手を出してごらん」
「手? こう?」

 言われるがままに手を差し出すと、しわしわの手に優しく包み込まれる。

「彼の顔を、頭で思い浮かべるんだ」
「うーん……」
「……探しているのは藍色の瞳の子かい?」
「えっ、そうよ。どうしてわかったの?」

 驚いて身を引くと、パッと手が離される。ぬくもりがなくなり、緊張で手が冷たくなっていたことに気づく。
 老婆はかすかに口角を上げ、饒舌に語る。

「これでも占い師だからね。そのくらいお安いもんさ。それより、その子なら向こうの階段を下りた先の見晴台にいるよ。すれ違う前にお行き」
「……見晴台?」

 老婆が指さす方向を見やると、北側に下り階段がある。その上には展望台のようなデッキスペースが小さく見える。

「わかったわ、行ってみる。……って、あれ?」

 お礼を述べようと振り返った先には、風でひらひらと舞った葉っぱしかなかった。
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