惡ガキノ蕾
     ~H30.11月最後の木曜日~
 新しい生活は、当たり前だけど何もかもが初めて尽くしで毎日がバタバタと騒がしく、二、三歩歩いては躓く《つまずく》ような日々の繰り返しだった。それでも兄妹が一つ屋根の下に暮らす生活は、毎日の取るに足らない平凡な出来事のひとつゝを幸せとして受け止められる新鮮さがあって、春から夏、そして秋へと季節の移り変わりに心を留める余裕も無く、一日、一日が秒で過ぎて行ったのだった。
 慌ただしく半年が過ぎて、それまで様子見していた冬将軍様がそろゝ本気出したろかって雰囲気を出し始めた十一月最後の木曜日。南瓜《かぼちゃ》の種を取ろうとスプーンを握った処で、アコーディオンカーテンで仕切られた座敷の奥から、肩に消毒用のガーゼを貼り付けた優《ゆう》が顔を出した。あ、優は双葉の同級生で、今日に限って言えば友達でもありお客さんでもある。刺青《いれずみ》を入れた後、一日はガーゼを貼ったままにしとくのが双葉の遣り方みたいで、あたしも最初目にした時は痛々しく思えて顔をしかめたものだけど、双葉に言わせると服で擦ったりするよりよっぽど肌には良いらしいんだよね。
 あたし逹が手に入れたこの中古住宅は一階が居酒屋、二階が居住スペースとして使われていた、いわゆる店舗住宅ってやつで、営業前の昼間のこの時間、座敷は双葉の仕事場として使っていて、夜は仕切りを開放した後、テーブルをセットして呑み屋の営業になるってわけ。
 店‥というか家の前には車三台程を置ける駐車場と猫の額《ひたい》程のにゃわ…じゃなくて、にわ、も有りますので団体様もいつでもお待ちしております。宣伝。
 ──で、なんで呑み屋を始める事になったのかって話だけど…。この家を内覧に来た時、一階の元居酒屋にはまだ業務用のでっかい冷蔵庫も調理器具もそのまま残されていて、何よりカウンターに使われていたのが立派な樫木《かしのき》の一枚板だったのがきむ爺に止め《とどめ》を刺して‥と、それが切っ掛け。だってきむ爺、「解体して全部ゴミとしてこちらで処分します」と話す不動産家を、あたし逹の意見もろくすっぽ聞かずに引き留めてしまったんだから…。ま、そんな流れでリノベーションの費用ももったいないし、元板前のきむ爺にあたしが協力して、二人で店を始めた、って事に表向きはなっているんだ。双葉も気が向けば手伝う事もあるんだけど、基本、毎日店に出るのはあたしの仕事。高校にも行ってない、その上得意な事も、なんの取り柄も無くてやりたい事さえ見付からないダメダメなあたしでも、働ける場所が出来たのは、ほんと恵まれていると思う。この家を見つけてきたのは一樹と双葉の二人で、きむ爺は関係無い事になってるけど、呆れる位鈍くてとろいあたしにだって、三人の気持ちはちゃんと伝わっているのだ。ってか、きむ爺のヘタクソなお芝居とか、あたしの顔色を心配そうに窺う《うかがう》一樹と双葉の眼差しとか、色んな想いが一遍に伝わって来過ぎて、今思えば内覧が終わった後多分あたし、怒ったような変な顔になっていたと思う。だってそうでもしてないと、何だか胸の中で熱を持ったものが零れ落ちそうで、顔の普段は使わない筋肉に力を入れていたから。
 ──小上がりから降りて来てムートンブーツに片足を差し込んだ優が声を投げてくる。
「はなみ。何か飲む物ちょ-だい」
「はいよ」そう言われると思って用意してました。南瓜を切る手を止めてあたしがカウンターに置いたのはオレンジジュ-ス。
「え-、お酒じゃないの…」
「今日は止めときなよ」仕切りの向こうから届いた声が優の頭を小突く。アコ-ディオンカ-テンが二つに分かれて、咥え煙草の双葉が出てきた。「綺麗に入れたいなら一日位がまんしなって」
 そのまま優の隣に座った双葉の前には冷えた缶ビ-ルを置く。いいな-とかぐちりながらも、優はその唇をオレンジジュ-スに近付けた。「ありがと」と双葉。
 薄く流れるインストゥルメンタルの合間に際立つ、プルトップが鳴らす「プシュッ‥」という控え目なパ-カッション。この音って肩の力が抜ける不思議な魔力があるよね。
 壁に掛けられたおんぼろ時計が「ぼ-ん、ぼ-ん‥」と5回鐘を打って、店を開ける迄は残す処後二時間。仕込みもなんとか終わりそうだ。
 簡単な仕込みと前日に残った洗い物、店の掃除はあたしのお役目。手の込んだ料理とか生ものは6時頃来るきむ爺の役割になっているんだ。ってか、そもゝあたしにゃ出来ないしね。働き始めてから、かれこれ半年以上が経つんだけど、最初の頃きむ爺に一度、「あたしは何をすればいいの?」って聞いた事がある。きむ爺の答えは「カウンタ-に立ってて、お客が飲みたい物を出して、飲みたくない物は出さなきゃいいんだ」って、そんだけ。「飲みたくない物は頼まないでしょ」って言ったら、「酔っ払いってえのは、飲みたくない物も頼んじまうからなあ」って。んでまた、ちょっと考えたあたしが、「それじゃぁ、分かんないじゃん」って言い返したら、「そりゃあそうだ。頼んでる本人が分かってねえんだから」なんて、何だか禅問答みたいになってきたから、それからは仕事の話はあんまり聞かないようにしてるんだ。他に教えて貰った事は…特に無いし、こうやれって決められてる事も別に無い。……考えてみたら、この店よくやって行けてんな、とはよく思う。
 この店は営業許可とか必要な届け出はきむ爺の名前で出してあって、あたしはこれでもバイトじゃなく、一従業員って事になっているんだから、もっと色々頑張らねば…とは思うんだけど…。何て言うか、手伝おう!なんて気が無くなる位、きむ爺の包丁捌き《さばき》は、あたしなんかの素人が見ても、上手いって言うか、それは綺麗というか、何だろう?料理と言うよりは何かこう…、上手い事言えないけどなんかもうヤバイんだよね。
 ──下拵え《したごしらえ》をした南瓜と小豆、梅干しを鍋に入れ火に掛ける。洗いおきしてあったグラスを磨いて棚に並べている処で、聞き慣れたバイクの排気音が近付いて来た。大きさを増したエンジン音が不意に途切れる。…少し間があってスタンドを立てる音。その後に雪駄《せった》が砂利を踏む音が続く…。
 ──カラ・コロ・カランと、入り口《はいりぐち》の引き戸に提げられた小さな鐘の音が店の中に響いた。
「ただいマイケル」
「おかえり」とあたし。「昨日と同じじゃん」と、此方《こっち》は双葉。その頭にポンと手を置いて、作業着姿のまま双葉の横に一樹が腰を下ろす。
「こんにちは!」
 カラコンでピンク色の目ん玉を更にハートマークにして挨拶する優。その声は、さっき迄とは人が変わったかのような張りの有る物に変わっている。
「おぅ、優。何だ休みか?」
「はい!一樹先輩、いつもお疲れ様です!」
 なに!なんなのその露骨過ぎる態度の変化は。キモッ!引くわ-。数秒前まで同じ場所に座ってた、酒が飲めなくてブ-たれてた女は一体何処へ行っちまったんだ?え?おい!‥‥コホン、失礼。あたしとしたことが少々取り乱しました。…え-この際だから、と言うかまあ、隠しておく必要も無いので話しておくけど、中学の頃から一樹と双葉は美男美女の兄妹として、地元じゃ滅茶苦茶有名だったんだ。そこにあたしの名前が出てくる事は無いんだけど、学校でって言うか、この辺りの中学で二人の事を知らない人なんて居なかったんじゃないかな。三兄妹って知らない人は居たとしてもね。んで優は、中学生の頃から一樹の熱烈なファンで、一樹に色目を使う女子は誰であろうと漏れなく優の敵となるのは、あたし逹の学校では周知の事実だったんだ。一応、飽く迄《あくまで》一応だけど補足しておくと、冷静且つ《かつ》極めて客観的に見て、あたしはブサイクって訳ではない。何故なら友達からブスだとはっきり言われた事は一度も無いし、パパもじいちゃんもよく可愛いゝって褒めてくれたし、告白だって一回こっきりだけどされた事もあるし…。言い出したら切りが無いけど、まあそういうのを全部引っ括るめて、中の上寄りだと自負してはいるのだけど。

   一樹曰く《いわく》 鳥とか栗鼠《りす》と   
    か肩に乗ってきそうな顔
   双葉曰く バックに小川のせせらぎが聞こえ  
    る顔 

 ──どんな顔だよ。
 言いたかないけど、取り立てて目立つ処が無いって事なんだろうな、きっと。一重だし、鼻は低いし、歯並びだっていい方じゃないし…。だから、一樹や双葉の友達に初めて会う時、皆が一様に見せる一瞬の間みたいなもんに気付いちゃって、軽くイラッと来る事も多いんだ。本当言うとね。
 優と初めて会った時は、双葉とあたしの顔を暫《しばらく》見比べて、その後何も言わずにあたしの肩を叩いたっけ。ポンポンって、労る《いたわる》ように優しく二回。その目を見ていたら、あんたは何も話さなくていいんだよと語り掛けてくれてるみたいで、何だか胸が詰まったっけ。
 あたしを産んで直ぐに死んじゃったママって、写真を見た限りだとかなりの美人さんだったから、きっとあたしはパパに似たんだと思う。‥‥ママが浮気してなければの話だけど‥‥。あたし野球ってあんまり詳しくないんだけど、店に来るオジサン達の話だと、どんな凄いバッターだって、打率は三割ちょっとだって言うじゃない?そう考えたら一樹と双葉で三分の二、三打数二安打の約六割。充分でしょ。親を恨むなんて筋違いなのはあたしにだってよく分かる。それに、どんなにモテたとしたって結婚出来るのは日本じゃ一人だけだし、その一人にさえしっかりと愛して貰えれば、他の男にモテる必要なんてない。そう、これっぽっちも必要無いのだ。そうでしょ?そう思うでしょ?ねえ、どうよ、そこのあなた。
 ──カラ・コロ・カラン
 再び引き戸が引かれて、きむ爺と一緒に「ウウゥ―――ッ」と威勢のいい消防車のサイレンが飛び込んで来た。
「ちょっとごめんよ」
 早口でそう言うと、入り口に立つきむ爺の脇を擦り抜けて一樹が飛び出して行く。
「どこ行くんですか!」
 優の声は一樹の背中には後一歩届かず、返事の代わりに遠ざかって行くバイクの音が聞こえて来た。
「鳶か火消しか、火消しか鳶かってねえ…」
戸口から首を伸ばして見送っていたきむ爺が誰にとも無く呟くと、「段々、親父に似てきたねえ」と笑いながらカウンターの中に入って来る。地元の消防団の一員でもある一樹は、今までにも火災現場に消防車が到着する前に、家の中からお年寄りを連れ出したり、狭い路地で消防車が入って行くのに邪魔になっている車を数人で持ち上げて移動したりして、感謝状を貰ったりもしていた。
「ねえきむ爺。さっきの鳶か火消しかって何?」
「おっ、優ちゃん。こんにちは」
「こんちは」
「鳶か火消しかってのはねえ……」
 一度掴んだ《つかんだ》前垂れ《まえだれ》を放して、置いてある丸椅子に腰掛けるきむ爺。腰に提げた煙草入れから煙管《キセル》を取り出すと、刻み煙草を詰めて鍋のかかったガス台から火を盗む。
「火消しってえのは昔、『火事だあ~!』なんて半鍾《はんしょう》が鳴るってえと、誰より早く駆け付けてねえ、火事場んなってる処は勿論、周りの家だの何だの燃えそうなもんはみんな壊して倒しちまうのよ」
 ぷかりと吐いた、思わず魂抜けた?と見紛う《みまがう》程濃い煙の固まりが、天に向かって昇って行く。じゃなかった、天井ね、天井。
「なんてたって、今と違ってホース伸ばして水撒いてってえ訳にもいかねえもんだから、それ以上火が燃え拡がらねえようにってんでなあ。なもんで、そいつが町火消しとか鳶の者とか呼ばれるようになってぇ…、まあ連中は鳶として現場でも働いていたって云うからねえ。で、そこん処から来たのが『鳶か火消しか、火消しか鳶か』ってやつよ」
「へー、きむ爺物知りじゃん」と優。
「なぁに、一樹のじいちゃんに茶飲み話の合間に聞かされた話だから、ちゃんと覚えてるかどうか怪しいとこだけどねえ…。そうそう、話の序で《ついで》にも一つ《ひとつ》並べちまえば、優ちゃんが肩に入れてるその彫り物なんてえのも、その頃ぁ人間様は肌からも空気を吸ってるなんて考えてる時代だから、火消し連中が火事場で腕や足から煙を吸わねえようにってんで入れたのが流行ったんだって話だったねえ。言われてみりゃあ、柄に龍なんかが多いのも、龍ってえのは水神様の化身だって聞くし、火にはやっぱり水って事だったのかねえ。」
「へー、それって初耳。双葉、あんた知ってた?あれ、双葉は?」
「二階。お風呂入ってくるってさ。今日は優で最後だから」
「あ-ね。…じゃああたしも帰ろ…。オレンジジュ-スご馳走さま。」
「毎度。三○○円です。」
「…あ-ね」    
 ──その日の夜は、双葉が通っていた警察署の少年剣道クラブの先生方が、同僚の婦人警官の結婚を祝うという事で店は貸し切りとなった。二十人近く居るお客さんの九割が警察官。うちの店に二十人は一杯ゝで、足の踏み場も、これ以上一人として他のお客さんが入れる余裕も無い位に窮屈だったけど、カウンタ-にもテ-ブルにも笑顔が溢れていた。初めは無理矢理座らされた感じの双葉だって、久しぶりに先生達に会えて嬉しそうだ。今も酔った先生のおでこにマジックで、胸割りのいかつい刺青《いれずみ》入れてるピーポ君の落書きしてるし。まさか彫ってないよね…。てゆうか、警察官の横で堂々と酒飲んでんのもどうかと思うけど。ちょっと太目の新婦さんが最後に言った「もう逃がさないわよ」が説得力のある締めの一言となって、祝いの宴《うたげ》はお開きとなった。
 ──何時も《いつも》より少し早目の十一時に店を閉めたその日の閉店後、きむ爺と二人、堤防に造られた遊歩道を並んで歩く。かまって貰えず駄々っ子のように点いたり消えたりを繰り返す路傍の外灯と、それを優しく包む柔らかい月明かり。時折思い出したように吹く風には、もう冬の匂いがぷんゝなのに、土手沿いに突っ立ったままの広葉樹達はどれも葉っぱを脱ぎ落として、信じらんない位薄着の健康優良児だ。
 散歩がてらにきむ爺の家まで歩くのは、あたしの最近の日課なのだ。
 思い込みだけど、川辺とか海辺って、ちょっとだけ空気が澄んでるみたいな気がするから好き。あと、夜見る川の奇異な質感で跳ねる光も。
 ──「クゥゥーン…」
 迷子なのか逃げてきたのか、首輪を付けた子犬が小さく巻いた尾を揺らしながら近付いて来る。…柴犬かな?ヨタヨタしてる足取りが超-カワイイ。隣を歩くきむ爺が口笛を吹きながら寄って行くと、子犬は鼻を鳴らして覚束ない《おぼつかない》歩みを止めた。
「おう、どうした?腹でも減ってんのか」
腰を屈めて《かがめて》、その頭を撫でようと手を──
 ──「グガウッ!!」
 噛まれた―――っ!!じじいが手噛まれた―――っ!!
「痛てえっ!!」
 普段の動きからは想像出来ない素早さで振り払おうとするきむ爺。それでも噛み付いて目をカッと見開いた子犬は口を離そうとしない。きむ爺の言った通り腹が減っていたのは確かみたいだった。あんなに愛らしかった子犬の形相は獲物を捕らえた時の獣のそれに一変している。ぶら下がった子犬の重さなど全く感じさせない勢いで、手を振り続けるきむ爺。……しかし、それでも離れない。振る。…離さない。更に振る。
「この野郎!!てめえっ」
 一回転させるように腕を振り回した処で、やっと諦めて子犬が口を離した。
「ふざけやがってこん畜生!」
 走って逃げる子犬に向かって、小石を投げつけるきむ爺。指の先にチラッと見えた赤い物は気の処為《せい》だろうか。
「アハハハハハハッ!!!」
「笑い事じゃねえや」
 泪《なみだ》ぐんでるきむ爺を見て、今日いち笑った。

   
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