アリスゲーム
第27話 望み
突然――強烈な耳鳴りが襲い、反射的に目を瞑る。それはしばらくすると治まり、安堵の息を吐いて瞼を持ち上げた。
すると、私はいつの間にか……見慣れた庭のど真ん中に座りこんでいて、緩やかに流れる風が頬を撫でて過ぎ去り揺れる芝生に足をくすぐられる。
(どういう、こと? 元の世界に帰って来たの? いいえ……そんなはず、)
とりあえず状況を整理しようと頭の中がぐるぐる回り始めた頃、誰かの泣き声が耳に届いた。
(……?)
ゆっくりと立ち上がって振り返ると、そこに居たのは――幼い頃の、私。
(え? どう、なって……なんで、『私』が……)
「……アリスが忘れてしまっている記憶は本当に必要なものなのか、見せてあげよう……本来であれば“今のままでは”見る事はできないが……特別ルールだ」
頭で響くエースの声。
それは、心の奥まで凍ってしまいそうなほど冷たく感情のこもっていない声音をしていた。
「……忘れたままでいいんだよ、アリス。こんな事は……」
途端に、金縛りにでもあったかのように体が動かせなくなってしまう。
目の前にいる幼い私には『私』の姿が見えていないらしく、この奇妙な空間はまるで映画か何かを見せられている気分だ。
「アリス!!」
「!!」
幼い私に、いつだか見た大人の女性が肩を怒らせながら歩み寄る。眉間に深くしわを刻んだまま、害虫でも見るような目を向けるその人。
一方で、幼い私は恐怖に染まった瞳で女性を見上げ、小さな体をカタカタと震わせていた。
(なんで、そんな……)
瞬間――女性の手が振り上げられ、直後に乾いた音が小さく響く。
今……私を、叩いた?
「また、お前は……っ! 勝手に外に出て!! 私の言うことは聞けないの!?」
数発、平手打ちを繰り返していたかと思えば、女性は握りこぶしを作って容赦なく何度も振り下ろした。
幼い私はひたすら「痛い」と訴え、両腕で頭を庇うようにしてうずくまっている。
「うるさい!!」
女性は鬼よりも恐ろしい表情を浮かべて私の髪を片手で鷲掴みにすると、そのまま乱暴に振り回し……私は抵抗もできずにただ泣き叫んでいた。
「いた、い! いたいっ! やめて! いたい、ごめんなさい……っ!!」
「手伝いもせずに……っ! 何なんだお前は! 私を馬鹿にしているの!?」
女性は私の髪を掴んだまま強引に持ち上げ、涙で濡れた頬を反対の手で殴りつける。
何度か拳を振るった後でようやく髪から手を離した……かと思えば、サッカーボールで遊ぶかのように小さな体を蹴り飛ばした。
「い゛……っ!!」
目測でまだ百二十センチほどしか背丈のない子供が、大の大人にみぞおちを蹴られて平気なわけがない。そんなこと、考えなくてもわかる。
幼い私は両手で腹部を押さえて体をくの字に丸め、苦しそうに唸りながら涙を流し続けていた。
すると、女性はそんな私を心配するそぶりなど微塵も見せずに怒鳴りつける。
「泣くんじゃないわよ!! 鬱陶しいわね!!」
「ご、ごめん゛な、ざい……っ! ごめ゛、ん、な゛ざい……っ! いいごに、じまず……っ! ゆるじで、お゛かあ゛、さん……!」
お母さん。
「あ、あ……いや……い、いや……いや……っ」
寒くもないのに体は小刻みに震え始め、「やめて」と心の中で何度も訴えるが、目の前で流される映像は止まらない。
金縛りの解けた手で両耳を塞ぎかたく目を瞑るけれど、指の隙間から侵入する『お母さん』の怒声と私の泣き声が頭の奥でこだました。
「いや、いや……や、だ……いやああああっ!!」
耐え切れず叫んだ瞬間に全ての声が消え、誰かに抱き寄せられる感触がして恐る恐る瞼を持ち上げる。
目の前に見えるのは……懐中時計と、緩く結ばれたネクタイと。それから……怒っている、時計屋さんの顔。
「余計なことをするな!!」
時計屋さんの怒声なんて、初めて聞いた。
彼に殴り飛ばされたらしいエースは壁に沿って並べられていた棚に派手な音を立てて倒れこみ、少しの間を置いて自身の頬に片手を添えたままのろりと立ち上がる。
「と……とけ、い……とけい、や、さん……っ」
震える手で時計屋さんの服を握りしめると、私を抱き寄せている彼の片手に力が込められ、私はそのまま「時計屋さん、時計屋さん」とすがりつくように繰り返した。
「……『余計なこと』とは心外だ。私は、アリスの希望を叶えただけだというのに」
「アリスを泣かせることが、か?」
いつもよりも低い時計屋さんの声は「ふざけるな」とでも言いたげな圧があり、エースは少しのあいだ顔を俯かせて黙り込む。
「……全ては、アリスが望んだ事だ」
しかし、やっと口を開いたかと思えば出てくるのはそんなセリフで。
私が望んだ事だなんて、こじつけもいい所だ。あんなものを見たいなんて、あんなことを思い出したいなんて……そんなの私が望むわけ、
「本当に?」
心を読めるらしいエースは、私が声には出さなかった反論に対して口頭で疑問を投げてくる。 まっすぐに私を映す緑の瞳が、嘘をつくなと責めているように見えた。
(……本当に? 私は本当に、望んでいなかった?)
望んでいなかった、はず。
私はただ、忘れてしまっていることを思い出せればいいのに、と……考えた事があるだけで、
(……つまり……思い出したいと、望んだ?)
そうだ。私が、望んだことだ。
(そんな……違う。違う……っ!)
そうじゃないと否定する心に「いいえ、違わないわ」ともう一人の私が囁いてくる。
違う、そうじゃなかった。知りたかったのは、こんな事じゃない。私は……私はただ、
「ち、がう……違う、の……そうじゃ、ない……違う……」
涙が頬を濡らして、全身が心臓になったかのように脈打ち震える。肌色が白くなるほど指先に力を込め、時計屋さんの服を握りしめた。
怖い、こわい。
「……時計屋、さん……たすけ、て……助けて……」
瞬間――ぐいと体を引き剥がされ、時計屋さんは素早い動きで内ポケットから懐中時計を取り出して拳銃に変化させると、エースに銃口を向けてなんの躊躇いもなく弾丸を放った。
「時計屋……そんなに“消えるのが”怖いのか?」
「うん、もちろん怖いよ。けど、アリスが泣いて『助けて』と言ったんだ。俺が動くための理由なんて、それだけで十分すぎる」
「……ああ、その通りだ」
間一髪でよけたらしいエースは再び時計屋さんが銃口を向けた瞬間「“私”が代わりに消えてしまえたら、どんなに良いか……」と小さく呟いてから、ロウソクの火を消すようにすうっと消えてしまう。
彼の姿が見えなくなると時計屋さんは拳銃を懐中時計に戻し、いつもの気怠げな雰囲気をまとって私を見た。
「……アリス、」
おいで、と両腕を広げられ再び抱きしめられる。そのまま優しく頭を撫でられて、不意に先ほどの光景が脳裏に蘇った。
(わたしは、)
私は、お母さんにこうして抱きしめられたことがあったのだろうか?頭を撫でられたことが、一度でもあっただろうか?
「……っ、」
お母さん、おかあさん。
「お、かあ、さん……おかあさん……っ」
ねえ、おかあさん。おねがい。わたしを……アリスを、
「お母さん……わた、し、を……私を、」
「……アリス?」
心配そうに首を傾げて私の顔を覗き込む時計屋さんに、一瞬お母さんの姿が重なった。
「お母さん……私、を……アリスを愛して、お母さん……」
「!!」
私の言葉を聞いて、時計屋さんは驚いたように大きく目を見開く。
「ア、リス……」
「何で……何で、私を見てくれないの……? 何で、どうして……みんな、私を嫌うの? 誰も私を見てくれないの……!?」
せき止められていた何かが流れ込むように、悲しみが延々と心の中で渦巻いていた。
自意識過剰もいいところだ。それなのに、思っていることが勝手に口からこぼれ落ちていく。
「みんな、私を見てよ……! 私を愛して……っ!!」
「アリス……お、落ち着いて……」
「私だけを見ていればいいのに! 私だけを、見てくれたら……ふ、うっ……いい子にするから。お願い、嫌わないで……ちゃんと、私を見て……いい子にします、ごめんなさい……っ」
時計屋さんの胸の中でうなだれると、彼は少しの間を置いて力強く私を抱きしめた。
「……嫌ったりしない、大丈夫。俺は、アリスを嫌わない……ちゃんと、アリスを見てるよ……だから、」
か細い声で続けられた言葉を、うまく拾い上げることができない。
(今……なんて、言ったの……?)
あの時……「愛して」と口にした瞬間、“何か”がたしかに私の心を満たした。
あれは、いったい何だったのだろうか。