アリスゲーム
第34話 誰がための怒り
そこは、いつもと変わらない公園。ただ唯一、変化があるとすれば……お茶会の席には、イカレウサギもネムリネズミもいないという事だけだった。
「……」
静かな空間の中、帽子屋がいつものように紅茶を飲みながらマフィンへ手を伸ばした時、不意に背後から声をかけられる。
「……帽子屋」
「何だ」
振り返りもせずに返事をすれば、今しがた彼を呼んだであろう人物は隣に来てとんと肩を叩いてきた。
帽子屋は深いため息を一つ吐き、心底めんどくさそうにゆっくりとそちらに体を向ける。
「誰かと思えば……お前か」
「……うん、俺」
気怠そうに言葉を返したのは時計屋だった。
帽子屋がソーサーにティーカップを置いた――一瞬にも近いほんのわずかな時間で、時計屋のまとっていた空気が変わる。
気の抜けたような雰囲気から一変、肌を刺すようなピリピリとした感覚が帽子屋を襲った。
「……どうかしたのか?」
「……アリス、どこに行ったか知らない?」
しかし、当人は相変わらずあくびが出そうな声音で言葉を落とす。
「アリス……?」
「……そう」
時計屋は小さく頷くと、お茶会の席に置かれていたチョコチップクッキーを勝手に取って口へ放り込んだ。少しの間を置いて、彼はまるで苦虫でも噛み潰したかのように顔をしかめる。「嫌なら食うな」と帽子屋がごもっともな指摘をすると、時計屋は「……チョコチップだったから」などといまいちわけのわからない返答をした。
「……何でアリスを探しているんだ」
溜め息混じりにそう言ってティーカップに紅茶を注ぐ帽子屋。
もちろん、自身の分だけだ。
「……」
彼は湯気の立つそれを一口飲み込んでから、返事をしない時計屋に目をやった。
どこか彼方を見つめたまま、黙り込んでいる時計屋。その様子を見て何かを察したらしい帽子屋は、小さく鼻で笑い立ち上がる。
「なんだ? そんなにアリスのことが好きなのか?」
時計屋の胸元で緩く結ばれたネクタイを片手で掴みぐいと引き寄せるが、彼はただ静かに帽子屋を見ただけで抵抗するそぶりもない。
「……っ、」
その態度に苛立ちを覚えたらしい帽子屋は、自身のシルクハットを手に取り瞬時に拳銃へ変化させると、その先端で時計屋の長い前髪をかき分けて彼の右目を露わにする。
いつもは故意的に隠されている、時計屋本人から見て右側の瞳。それは怪我を負っていたり、視力を失っているわけではなかった。
小さな文字盤と、長針・短針が一本ずつ。秒針のみ存在しない時計が、彼の右目に埋め込まれている。
「ああ、それとも……『コレ』の恩返しでもしているのか?」
帽子屋が銃口をその瞳に向けても、時計屋は全く反応を示さなかった。
***
別に、喧嘩がしたいわけではない。ただ……何も言葉を返さず、顔色ひとつ変えないことに腹が立つのだ。
まるで――存在を、無視されているようで。
「何とか言ったらどうなんだ?」
「……」
睨んでも、舌打ちをしても、時計屋はまばたきを繰り返すだけで……俺は短気な“子供だから”はらわたが煮えくり返りそうだった。
カッとなった勢いで全身の体温は急激に上がり、同時に襲いかかる頭痛がさらに苛立ちを加速させる。
「……っ、何か言え!!」
掴んでいたネクタイから手を離し、「無駄なことだ」とわずかに残る理性で理解しながらも、時計屋の頭に銃口を向けて衝動的に引き金をひいた。
しかし、
「……」
カチリと音が鳴り時計の針が止まればそれに合わせて弾丸は空中で静止し、次の瞬間には重力に従って地面に落下する。
こうなると、最初からわかりきっていた。旧知の仲だから知っていた、というわけではない。
時間操作――これが、こいつの能力だからだ。
(チート野郎……)
それでもなお、時計屋は文句も言わずに乱れた服装を整えている。
その様子を見て、自分だけが腹を立て癇癪を起こしている現状が突然アホらしく思えてきた。
「はあ……アリスなら、だいぶん前にここへ来た」
拳銃をシルクハットに戻して被り直し、どかりと椅子に腰掛ける。
「それで、イカレウサギが消えているのに気づいて……」
時計屋の面白い反応が見れそうな方法に気がついて、そこで一旦言葉を切った。
この澄ました顔がどんな風に崩れるのか。考えただけで笑いが込み上げ、嘲笑混じりに言葉を紡ぐ。
「だから俺は、アリスに色々と教えてやったんだよ。その後は……泣きながら走り去って、森へ入って行くのを見た」
「――っ!!」
瞬間、そこで初めて時計屋の目が大きく見開かれた。
胸ポケットから懐中時計を取り出していると認識した時には、すでに銃口はこちらを向いており、
「!?」
静かな公園に、耳をつんざくような音が響く。
撃ち抜かれたシルクハットには穴が開き、衝撃で宙を舞ってからころりと地面を転がった。
「……ははっ。やっと反応したかと思えば、」
「……あのな、帽子屋。俺は……自分が馬鹿にされても、殺されそうになっても、そんな事はどうだっていい。自分の事なんて、どうでもいいんだよ。ただ……アリスを泣かせる奴は、誰だろうが絶対に許さない。俺は今“自分の意思で”そう決めてるんだ」
強い怒りの色がちらつく目と、肌を這うような低い声。
時計屋は一切躊躇せずに、銃口を俺の左胸に突きつけてくる。
「……アリスに何をした? 何を言った?」
「ははっ、さあ? 何だろうな?」
言葉を返すと同時に銃声が響き渡り、椅子から降りて弾をすんでのところで避けると、テーブルの上にあったナイフを手に取って時計屋の喉元に押し当てた。
綺麗な銀色に、赤色がじわりと滲む。
「俺が思っていた以上に、アリスにご執心らしいな」
「……無駄口を叩くより先に、人の質問に答えろよ。お前がアリスを傷つけたのか?」
少し切れた喉など気にする様子もなく、時計屋は俺のこめかみに銃口を当ててきた。
(答えようによっては、本気で俺を殺す気だな。こいつ)
殺気で空気が震えるような錯覚をおぼえる中で、風鈴が揺れる音にも似た声がとんと響く。
「時計屋、さん……? 帽子屋さん……?」
「……アリス」
「……」
静かな空間の中、帽子屋がいつものように紅茶を飲みながらマフィンへ手を伸ばした時、不意に背後から声をかけられる。
「……帽子屋」
「何だ」
振り返りもせずに返事をすれば、今しがた彼を呼んだであろう人物は隣に来てとんと肩を叩いてきた。
帽子屋は深いため息を一つ吐き、心底めんどくさそうにゆっくりとそちらに体を向ける。
「誰かと思えば……お前か」
「……うん、俺」
気怠そうに言葉を返したのは時計屋だった。
帽子屋がソーサーにティーカップを置いた――一瞬にも近いほんのわずかな時間で、時計屋のまとっていた空気が変わる。
気の抜けたような雰囲気から一変、肌を刺すようなピリピリとした感覚が帽子屋を襲った。
「……どうかしたのか?」
「……アリス、どこに行ったか知らない?」
しかし、当人は相変わらずあくびが出そうな声音で言葉を落とす。
「アリス……?」
「……そう」
時計屋は小さく頷くと、お茶会の席に置かれていたチョコチップクッキーを勝手に取って口へ放り込んだ。少しの間を置いて、彼はまるで苦虫でも噛み潰したかのように顔をしかめる。「嫌なら食うな」と帽子屋がごもっともな指摘をすると、時計屋は「……チョコチップだったから」などといまいちわけのわからない返答をした。
「……何でアリスを探しているんだ」
溜め息混じりにそう言ってティーカップに紅茶を注ぐ帽子屋。
もちろん、自身の分だけだ。
「……」
彼は湯気の立つそれを一口飲み込んでから、返事をしない時計屋に目をやった。
どこか彼方を見つめたまま、黙り込んでいる時計屋。その様子を見て何かを察したらしい帽子屋は、小さく鼻で笑い立ち上がる。
「なんだ? そんなにアリスのことが好きなのか?」
時計屋の胸元で緩く結ばれたネクタイを片手で掴みぐいと引き寄せるが、彼はただ静かに帽子屋を見ただけで抵抗するそぶりもない。
「……っ、」
その態度に苛立ちを覚えたらしい帽子屋は、自身のシルクハットを手に取り瞬時に拳銃へ変化させると、その先端で時計屋の長い前髪をかき分けて彼の右目を露わにする。
いつもは故意的に隠されている、時計屋本人から見て右側の瞳。それは怪我を負っていたり、視力を失っているわけではなかった。
小さな文字盤と、長針・短針が一本ずつ。秒針のみ存在しない時計が、彼の右目に埋め込まれている。
「ああ、それとも……『コレ』の恩返しでもしているのか?」
帽子屋が銃口をその瞳に向けても、時計屋は全く反応を示さなかった。
***
別に、喧嘩がしたいわけではない。ただ……何も言葉を返さず、顔色ひとつ変えないことに腹が立つのだ。
まるで――存在を、無視されているようで。
「何とか言ったらどうなんだ?」
「……」
睨んでも、舌打ちをしても、時計屋はまばたきを繰り返すだけで……俺は短気な“子供だから”はらわたが煮えくり返りそうだった。
カッとなった勢いで全身の体温は急激に上がり、同時に襲いかかる頭痛がさらに苛立ちを加速させる。
「……っ、何か言え!!」
掴んでいたネクタイから手を離し、「無駄なことだ」とわずかに残る理性で理解しながらも、時計屋の頭に銃口を向けて衝動的に引き金をひいた。
しかし、
「……」
カチリと音が鳴り時計の針が止まればそれに合わせて弾丸は空中で静止し、次の瞬間には重力に従って地面に落下する。
こうなると、最初からわかりきっていた。旧知の仲だから知っていた、というわけではない。
時間操作――これが、こいつの能力だからだ。
(チート野郎……)
それでもなお、時計屋は文句も言わずに乱れた服装を整えている。
その様子を見て、自分だけが腹を立て癇癪を起こしている現状が突然アホらしく思えてきた。
「はあ……アリスなら、だいぶん前にここへ来た」
拳銃をシルクハットに戻して被り直し、どかりと椅子に腰掛ける。
「それで、イカレウサギが消えているのに気づいて……」
時計屋の面白い反応が見れそうな方法に気がついて、そこで一旦言葉を切った。
この澄ました顔がどんな風に崩れるのか。考えただけで笑いが込み上げ、嘲笑混じりに言葉を紡ぐ。
「だから俺は、アリスに色々と教えてやったんだよ。その後は……泣きながら走り去って、森へ入って行くのを見た」
「――っ!!」
瞬間、そこで初めて時計屋の目が大きく見開かれた。
胸ポケットから懐中時計を取り出していると認識した時には、すでに銃口はこちらを向いており、
「!?」
静かな公園に、耳をつんざくような音が響く。
撃ち抜かれたシルクハットには穴が開き、衝撃で宙を舞ってからころりと地面を転がった。
「……ははっ。やっと反応したかと思えば、」
「……あのな、帽子屋。俺は……自分が馬鹿にされても、殺されそうになっても、そんな事はどうだっていい。自分の事なんて、どうでもいいんだよ。ただ……アリスを泣かせる奴は、誰だろうが絶対に許さない。俺は今“自分の意思で”そう決めてるんだ」
強い怒りの色がちらつく目と、肌を這うような低い声。
時計屋は一切躊躇せずに、銃口を俺の左胸に突きつけてくる。
「……アリスに何をした? 何を言った?」
「ははっ、さあ? 何だろうな?」
言葉を返すと同時に銃声が響き渡り、椅子から降りて弾をすんでのところで避けると、テーブルの上にあったナイフを手に取って時計屋の喉元に押し当てた。
綺麗な銀色に、赤色がじわりと滲む。
「俺が思っていた以上に、アリスにご執心らしいな」
「……無駄口を叩くより先に、人の質問に答えろよ。お前がアリスを傷つけたのか?」
少し切れた喉など気にする様子もなく、時計屋は俺のこめかみに銃口を当ててきた。
(答えようによっては、本気で俺を殺す気だな。こいつ)
殺気で空気が震えるような錯覚をおぼえる中で、風鈴が揺れる音にも似た声がとんと響く。
「時計屋、さん……? 帽子屋さん……?」
「……アリス」