アリスゲーム
第35話 みんないなくなる
花屋さんも、消えてしまった。
「そん、な……」
イカレウサギ、女王様、ネムリネズミに続いて……花屋さんまで。みんな、みんな私の前からいなくなってしまう。消えてしまう。
「……!!」
みんな……?
「……と、けい、や……さ、」
――……時計屋さんは?
気づいた瞬間、背筋に悪寒が駆け巡り手が震え始めた。
(そんな、そんなはず……)
時計屋さんは、どうだった?彼は今、まだこの国にいるの?それともすでに、
「か、帰らなきゃ……」
時計屋さんの元へ、急いで帰らなければ。
脳と心だけが焦るけれど、言うことのきかない膝は笑って立ち上がることがままならず、指先に力が入らない。
(立て、立て……っ! 言うことを聞いて!!)
それでも、ガクガクと震える足を思い切り叩いて無理やり踏ん張り、視界の邪魔をする涙を手の甲で拭ってから店の出口へ向かって走った。
時折ふらついて倒れてしまいそうになる体をなんとか支えつつ、森へ続く一本道に全速力で飛び込む。
「……急いで、アリス。早く会いに行くんだ」
「!?」
なんの前触れもなく、エースの声が頭の中でとんと響いた。
幻聴なのか……それとも、現実か。
「エース!? そこにいるの!?」
足を止めて呼びかけるけれど、彼からの返事はない。
薄暗い森の中で、それがさらに恐怖を加速させた。
(エースまで、消えてしまうの……?)
アリスはいつも、ひとりぼっち。
「はっ、はぁっ……」
息が切れて、うまく吸えなくなる。辺りを見渡しても、私以外には誰もいない。
みんな、いなくなってしまう……消えてしまう。きっとみんな、アリスを置いてどこかへ行ってしまうんだ――“あの人”みたいに。
(……誰の、こと?)
「……アリス、立ち止まってはいけないよ」
不意に、ぽんと背中を押されて我に返った。しかし、慌てて振り返ってもそこには誰もいない。
いや……そうだ。今は、そんな事を気にしている場合ではなかった。
(私が……『アリス』が今、やらなきゃいけない事は……急がなきゃ、いけない。それだけよ)
もう一度、震える足に力を入れて走り出す。
時計屋さんに対して(どうか、あなただけは消えないで)と願いつつしばらく道を進んでいると、途中で見覚えのある場所にたどり着いた。
長方形のテーブル、乱雑に置かれたティーポットとティーカップ、ばらばらの時間をさす大量の目覚まし時計。
そして、
「時計屋、さん……? 帽子屋さん……?」
「……アリス」
時計屋さんと帽子屋さんの姿が、たしかにそこにあった。
(よかった……二人とも、まだ消えてない……っ)
胸を撫で下ろしたのもつかの間――二人のそばへ駆け寄ってはじめて、ただならぬ事態である事に気がつく。
時計屋さんは帽子屋さんに銃口を向けており、対する帽子屋さんは時計屋さんにナイフを突きつけていて……綺麗に磨かれた銀色のナイフには、うっすらと赤色の液体が滲んでいた。
「二人とも……何を、しているの……?」
「……」
「あっ……あー、えっと、これは……」
時計屋さんがどこかばつの悪そうな表情を浮かべて拳銃を懐中時計に戻すと、帽子屋さんも彼の首からナイフを離してぽいとテーブルの上に投げ捨てる。
「……じゃれ合っていただけだ。な? そうだろう? 時計屋」
「はあ? 何ふざけた事……あっ……うん、そう……ちょっとじゃれ合ってただけだから、大丈夫。アリスの心配するような事は、何もないよ」
ちくちくと肌を刺すような空気が一変し、時計屋さんのまとう雰囲気が彼特有の……言葉では何とも言い表せない、普段通り気の抜けたものへ変化する。
真偽はともかく、彼らが今まだここにいてくれたことがとても嬉しかった。
「……っ、時計屋さん……!!」
彼に勢いよく抱きつけば、背後からは帽子屋さんの小さな舌打ちが聞こえ、頭上からは「あえ……っ!?」と上ずった声が降ってくる。
「あっ、あの……あり、アリス……? その、どうした……? なに……?」
ゆっくり顔を上げると、頬を朱に染めて慌てる時計屋さんの隻眼と目線がぶつかった。
「……なや、さん、が……花屋さんが、きっ、消え、ちゃったの……」
泣き出してしまいそうになるのを必死に堪えてそう告げると、彼は一瞬ひどく悲しげな顔をする。そして、気持ちを整理するかのように一つ息を吐いてから「……そっか。消えちゃったんだな、あいつ」と短く呟いて、そっと私の頭を撫でてくれた。
「……っ」
私のことを大切だと言ってくれた人が、いなくなってしまった。
それがなぜか“初めての出来事ではない気がして”怖くてたまらない。
(もう、これ以上……私を愛してくれる人がいなくなるのは、嫌だ……)
それなのに、まだ過去の出来事をろくに思い出せていない自分自身に対して、腹が立って仕方がなかった。
みんなあんなに、たくさん想いを伝えてくれたのに。私の心の中は穴があいているかのように空っぽで、いまだに満たされない。
(どうして、思い出せないの……?)
思い出したいのに。
自分が傷つくことになっても構わない。私はきちんと、過去の清算をするべきだ。
昔……この世界で、何があったのか。私は誰に何を言って、どんな事をしてしまったのか。逃げてばかりいないで、いい加減に知るべきだ。
(そうでしょう……?)
どうしてみんなは私に「はじめまして」ではなく「おかえり」と言ってくれたのか。
――……私は、知りたい。
「ねえ……時計屋さん、知っているなら教えて? 前に、私に言ったでしょう? 忘れてしまったんだね、って。私は、いったい何を忘れているの?」
「――っ!? 駄目だ、アリス! それ以上はよせ!!」
帽子屋さんが慌てて制止する声なんて、私の耳には入らなかった。
「時計屋さん、私……忘れてしまっている昔のことを、思い出したい……逃げないで、みんなと……過去と、向き合いたいの」
真っ直ぐに時計屋さんの目を見て言った瞬間、彼は小さな声でぽつりと呟く。
「……ああ、しまった……失敗したな……」
「え……?」
時計屋さんが自嘲するような微笑みを浮かべた時にはもう全て遅かったのだと、私は後で知ることになった。
「そん、な……」
イカレウサギ、女王様、ネムリネズミに続いて……花屋さんまで。みんな、みんな私の前からいなくなってしまう。消えてしまう。
「……!!」
みんな……?
「……と、けい、や……さ、」
――……時計屋さんは?
気づいた瞬間、背筋に悪寒が駆け巡り手が震え始めた。
(そんな、そんなはず……)
時計屋さんは、どうだった?彼は今、まだこの国にいるの?それともすでに、
「か、帰らなきゃ……」
時計屋さんの元へ、急いで帰らなければ。
脳と心だけが焦るけれど、言うことのきかない膝は笑って立ち上がることがままならず、指先に力が入らない。
(立て、立て……っ! 言うことを聞いて!!)
それでも、ガクガクと震える足を思い切り叩いて無理やり踏ん張り、視界の邪魔をする涙を手の甲で拭ってから店の出口へ向かって走った。
時折ふらついて倒れてしまいそうになる体をなんとか支えつつ、森へ続く一本道に全速力で飛び込む。
「……急いで、アリス。早く会いに行くんだ」
「!?」
なんの前触れもなく、エースの声が頭の中でとんと響いた。
幻聴なのか……それとも、現実か。
「エース!? そこにいるの!?」
足を止めて呼びかけるけれど、彼からの返事はない。
薄暗い森の中で、それがさらに恐怖を加速させた。
(エースまで、消えてしまうの……?)
アリスはいつも、ひとりぼっち。
「はっ、はぁっ……」
息が切れて、うまく吸えなくなる。辺りを見渡しても、私以外には誰もいない。
みんな、いなくなってしまう……消えてしまう。きっとみんな、アリスを置いてどこかへ行ってしまうんだ――“あの人”みたいに。
(……誰の、こと?)
「……アリス、立ち止まってはいけないよ」
不意に、ぽんと背中を押されて我に返った。しかし、慌てて振り返ってもそこには誰もいない。
いや……そうだ。今は、そんな事を気にしている場合ではなかった。
(私が……『アリス』が今、やらなきゃいけない事は……急がなきゃ、いけない。それだけよ)
もう一度、震える足に力を入れて走り出す。
時計屋さんに対して(どうか、あなただけは消えないで)と願いつつしばらく道を進んでいると、途中で見覚えのある場所にたどり着いた。
長方形のテーブル、乱雑に置かれたティーポットとティーカップ、ばらばらの時間をさす大量の目覚まし時計。
そして、
「時計屋、さん……? 帽子屋さん……?」
「……アリス」
時計屋さんと帽子屋さんの姿が、たしかにそこにあった。
(よかった……二人とも、まだ消えてない……っ)
胸を撫で下ろしたのもつかの間――二人のそばへ駆け寄ってはじめて、ただならぬ事態である事に気がつく。
時計屋さんは帽子屋さんに銃口を向けており、対する帽子屋さんは時計屋さんにナイフを突きつけていて……綺麗に磨かれた銀色のナイフには、うっすらと赤色の液体が滲んでいた。
「二人とも……何を、しているの……?」
「……」
「あっ……あー、えっと、これは……」
時計屋さんがどこかばつの悪そうな表情を浮かべて拳銃を懐中時計に戻すと、帽子屋さんも彼の首からナイフを離してぽいとテーブルの上に投げ捨てる。
「……じゃれ合っていただけだ。な? そうだろう? 時計屋」
「はあ? 何ふざけた事……あっ……うん、そう……ちょっとじゃれ合ってただけだから、大丈夫。アリスの心配するような事は、何もないよ」
ちくちくと肌を刺すような空気が一変し、時計屋さんのまとう雰囲気が彼特有の……言葉では何とも言い表せない、普段通り気の抜けたものへ変化する。
真偽はともかく、彼らが今まだここにいてくれたことがとても嬉しかった。
「……っ、時計屋さん……!!」
彼に勢いよく抱きつけば、背後からは帽子屋さんの小さな舌打ちが聞こえ、頭上からは「あえ……っ!?」と上ずった声が降ってくる。
「あっ、あの……あり、アリス……? その、どうした……? なに……?」
ゆっくり顔を上げると、頬を朱に染めて慌てる時計屋さんの隻眼と目線がぶつかった。
「……なや、さん、が……花屋さんが、きっ、消え、ちゃったの……」
泣き出してしまいそうになるのを必死に堪えてそう告げると、彼は一瞬ひどく悲しげな顔をする。そして、気持ちを整理するかのように一つ息を吐いてから「……そっか。消えちゃったんだな、あいつ」と短く呟いて、そっと私の頭を撫でてくれた。
「……っ」
私のことを大切だと言ってくれた人が、いなくなってしまった。
それがなぜか“初めての出来事ではない気がして”怖くてたまらない。
(もう、これ以上……私を愛してくれる人がいなくなるのは、嫌だ……)
それなのに、まだ過去の出来事をろくに思い出せていない自分自身に対して、腹が立って仕方がなかった。
みんなあんなに、たくさん想いを伝えてくれたのに。私の心の中は穴があいているかのように空っぽで、いまだに満たされない。
(どうして、思い出せないの……?)
思い出したいのに。
自分が傷つくことになっても構わない。私はきちんと、過去の清算をするべきだ。
昔……この世界で、何があったのか。私は誰に何を言って、どんな事をしてしまったのか。逃げてばかりいないで、いい加減に知るべきだ。
(そうでしょう……?)
どうしてみんなは私に「はじめまして」ではなく「おかえり」と言ってくれたのか。
――……私は、知りたい。
「ねえ……時計屋さん、知っているなら教えて? 前に、私に言ったでしょう? 忘れてしまったんだね、って。私は、いったい何を忘れているの?」
「――っ!? 駄目だ、アリス! それ以上はよせ!!」
帽子屋さんが慌てて制止する声なんて、私の耳には入らなかった。
「時計屋さん、私……忘れてしまっている昔のことを、思い出したい……逃げないで、みんなと……過去と、向き合いたいの」
真っ直ぐに時計屋さんの目を見て言った瞬間、彼は小さな声でぽつりと呟く。
「……ああ、しまった……失敗したな……」
「え……?」
時計屋さんが自嘲するような微笑みを浮かべた時にはもう全て遅かったのだと、私は後で知ることになった。