元書店員ですが、転生したら貴族令嬢になっていました!
32.① 驚いたので走って逃げることは許して欲しい
ヴィクターが驚いた顔をして、その令嬢の名前を呼んだのが聞こえた。
「マリアンヌ嬢、どうしてここに?」
「ヴィクトル様がいらっしゃっていると――ついにご婚約を私に申し込みにいらっしゃったと父から聞きまして、いち早くお目にかかりに、こちらに参りましたの」
鈴を鳴らすかのような彼女の凛とした声があたりに響き、私は―――兄の手を振り払って後ずさった。その時、呆然としているヴィクターの視線が令嬢から外れ、立ちすくんでいる私のことを認めたのに気づき、いたたまれなくなった私は踵を返して王宮の出口に向かって走り出した。
「待て、リンネ!」
エリックの声が後ろから聞こえてきたが―――私はもうこの場からいなくなることだけを思い、闇雲に走り続けた。
☆☆☆
(迷った……)
三十分後、走り続けた私は疲れ果ててついに足を止めた。ここはおそらく、王宮の中庭である。木立が並び、草の茂みが私の姿を隠してくれている。出口から外に出たはずだったのだが、どこをどう走ったのか正門にはたどり着かず、召使たちや貴族たちの目から逃げよう逃げようと人目を避け続けた結果、中庭の端っこにたどり着いた。ここには誰もいない。
少し離れていたヴィクターはともかく、隣にいたエリックまで振りきって逃げ出すとは――。咄嗟の行動すぎて、自分でも驚いた。
あの時、美しい容貌を持ち、おそらく爵位もヴィクターにつり合う本物の淑女であろうマリアンヌという女性が彼との婚約の話をしたときに、何かの間違いであろうとか私のことを騙していたのかとかそういう疑問が湧くより前に、私はただただ哀しくていたたまれなくなったのだ。アリアナより、勿論皆原凛音より、ずっとお似合いの二人として私の目に映ったことが、とてつもなく哀しかった。
本屋でバリバリ働いていた凛音ならともかくこの細くてか弱いアリアナの身体にこんなに長いこと走り続ける力があったとは驚きである。しかし一度立ち止まってしまうと、疲れがどっと出て、もうこれ以上は動ける自信がなかった。
(あ、雨……)
私のみじめな心におあつらえ向きのように雨がしとしとと降りだした。濡れるがまま、俯き、しゃがみ込んだ。
私、こんなにヴィクターのことを好きになっていたんだなぁ。
この三ヶ月、彼が見せてくれた心からの笑顔、伝えてくれた言葉、大切にしようとしてくれる態度、すべてが愛しかった。もっと言えば私のことをアリアナだと信じていた頃から見せてくれたぶっきらぼうな優しさも愛しかった。イケメンの威力すごいとかケイン伯爵似で眼福なんておどけていたけれども、一番惹きつけられたのは、彼の輝けんばかりに光る知性と、男らしい感性と、優しさだったのだ。それを失うなんて考えられない。けれども、きっと彼にはもっと良い相手がいるはずなのだ、と、分かってしまった。みるみるうちに涙があふれてきて、顔に打ちつける雨が隠してくれることをいいことに、私はひたすら泣き続けた。
ヴィクターは私のことを初恋といってくれたけど、私にとってもヴィクターは初恋だったみたいだ。
高校生の時からなんとなく流されるように恋人を作ってきたが、彼らのことをヴィクターほど好きだったわけではないんだ、と今、思い知った。相手に自分よりもっと相応しい相手がいると知っただけで、こんなに胸が張り裂けんばかりに泣けるような恋を私は知らない。
雨 はいつしか本降りになっていて、私をしとどに濡らし、ドレスは水を吸い込んだ分重みを増し、徐々に体温を奪っていく。それでも私は泣き続けた。涙は暖かく頬を濡らした。しかしその時――
(私はなんて馬鹿なんだ)
突然、自分の自信のなさを、あの令嬢と一緒にいるヴィクターを見たショックとすりかえていることに気づき、私は頭を数回振って、立ち上がった。
「マリアンヌ嬢、どうしてここに?」
「ヴィクトル様がいらっしゃっていると――ついにご婚約を私に申し込みにいらっしゃったと父から聞きまして、いち早くお目にかかりに、こちらに参りましたの」
鈴を鳴らすかのような彼女の凛とした声があたりに響き、私は―――兄の手を振り払って後ずさった。その時、呆然としているヴィクターの視線が令嬢から外れ、立ちすくんでいる私のことを認めたのに気づき、いたたまれなくなった私は踵を返して王宮の出口に向かって走り出した。
「待て、リンネ!」
エリックの声が後ろから聞こえてきたが―――私はもうこの場からいなくなることだけを思い、闇雲に走り続けた。
☆☆☆
(迷った……)
三十分後、走り続けた私は疲れ果ててついに足を止めた。ここはおそらく、王宮の中庭である。木立が並び、草の茂みが私の姿を隠してくれている。出口から外に出たはずだったのだが、どこをどう走ったのか正門にはたどり着かず、召使たちや貴族たちの目から逃げよう逃げようと人目を避け続けた結果、中庭の端っこにたどり着いた。ここには誰もいない。
少し離れていたヴィクターはともかく、隣にいたエリックまで振りきって逃げ出すとは――。咄嗟の行動すぎて、自分でも驚いた。
あの時、美しい容貌を持ち、おそらく爵位もヴィクターにつり合う本物の淑女であろうマリアンヌという女性が彼との婚約の話をしたときに、何かの間違いであろうとか私のことを騙していたのかとかそういう疑問が湧くより前に、私はただただ哀しくていたたまれなくなったのだ。アリアナより、勿論皆原凛音より、ずっとお似合いの二人として私の目に映ったことが、とてつもなく哀しかった。
本屋でバリバリ働いていた凛音ならともかくこの細くてか弱いアリアナの身体にこんなに長いこと走り続ける力があったとは驚きである。しかし一度立ち止まってしまうと、疲れがどっと出て、もうこれ以上は動ける自信がなかった。
(あ、雨……)
私のみじめな心におあつらえ向きのように雨がしとしとと降りだした。濡れるがまま、俯き、しゃがみ込んだ。
私、こんなにヴィクターのことを好きになっていたんだなぁ。
この三ヶ月、彼が見せてくれた心からの笑顔、伝えてくれた言葉、大切にしようとしてくれる態度、すべてが愛しかった。もっと言えば私のことをアリアナだと信じていた頃から見せてくれたぶっきらぼうな優しさも愛しかった。イケメンの威力すごいとかケイン伯爵似で眼福なんておどけていたけれども、一番惹きつけられたのは、彼の輝けんばかりに光る知性と、男らしい感性と、優しさだったのだ。それを失うなんて考えられない。けれども、きっと彼にはもっと良い相手がいるはずなのだ、と、分かってしまった。みるみるうちに涙があふれてきて、顔に打ちつける雨が隠してくれることをいいことに、私はひたすら泣き続けた。
ヴィクターは私のことを初恋といってくれたけど、私にとってもヴィクターは初恋だったみたいだ。
高校生の時からなんとなく流されるように恋人を作ってきたが、彼らのことをヴィクターほど好きだったわけではないんだ、と今、思い知った。相手に自分よりもっと相応しい相手がいると知っただけで、こんなに胸が張り裂けんばかりに泣けるような恋を私は知らない。
雨 はいつしか本降りになっていて、私をしとどに濡らし、ドレスは水を吸い込んだ分重みを増し、徐々に体温を奪っていく。それでも私は泣き続けた。涙は暖かく頬を濡らした。しかしその時――
(私はなんて馬鹿なんだ)
突然、自分の自信のなさを、あの令嬢と一緒にいるヴィクターを見たショックとすりかえていることに気づき、私は頭を数回振って、立ち上がった。