元書店員ですが、転生したら貴族令嬢になっていました!
33.① 昔から雨降ったら地固まると申します
私は半身を起こして背中の後ろに枕を挟み、兄が渡してくれた苦い薬を飲んだ。肺炎を起こしかかっていたようだが、座っているとそこまで咳は出ず呼吸も楽なのでこの姿勢でいることにする。
それからしばらくして部屋に戻ってきたヴィクターと交代してエリックは部屋を出て行った。私たち二人にしようと思って気を遣ってくれたのだろう。ヴィクターは髭も剃り落として、湯浴みもしたのか、石鹸の香りがした。
「凛音」
ヴィクターはベッドの端に腰かけ、私の左手を握った。私は暖かくて大きな彼の手をゆっくりと握り返した。
「不快な思いをさせて、悪かった―――マリアンヌ嬢は仕事の関係で知り合った」
「うん」
「仕事の内容を上の許可なく勝手に俺が話すことはできないから、詳しくは言えないんだが――マリアンヌ嬢が言っていたことは全て嘘だ。俺は彼女に求婚したことはないし、これからもすることもない。そんな素振りを見せたこともない。あいつが勝手に俺に言い寄ってきているだけなんだ」
「そっか……」
ふうっと私は息を吐いた。ちゃんと向き合って話を聞けばこうやってヴィクターはきちんと話してくれるのに。そういう人だから好きになったのに、私は何故あんな行動をしてしまったのだろう。本当に自分が恥ずかしかった。ヴィクターは顔をしかめたまま続ける。
「ああやって、他の貴族がいる前で婚約云々と話すことで既成事実を作ろうとしたんだと思う」
今から思えば、彼は唖然としていたように見えた――離れ離れだった婚約者に会えて喜んでいるようには到底見えなかった。私に自信と余裕があれば、ちゃんとわかったのに。あの一瞬、私に内なる悪魔が良からぬことを囁いたのだった。魔が差す、というのはよく言ったものだ。
「うん」
「凛音を失うかと思って、本当に怖かった」
彼の漆黒の瞳が、微かに揺れる。
「あんなどうでもいい女のために――凛音を失うなんて考えられない」
私は深呼吸をした。
「ヴィクター、今から私の話を聞いてくれる?」
ヴィクターは震える瞳で私を見返した。
「別れる、という話以外なら何でも聞く」
私はあの日、中庭で気づいた自分で見て見ぬふりをしていたこの世界での不確かさへの恐怖感を彼に話した。いつか彼を残して消えてしまうかもしれないこと、消えた後で一体どうなるかなんて誰にも分からないこと。こんな不確かな自分を愛するより、ヴィクターには自分ではなくてもっと相応しい相手がいるのではないかとずっと思っていたこと。求婚を受け入れてからも心の奥で不安がくすぶっていたこと。その自信のなさが、完璧に見える貴族令嬢が目の前に登場したときに、自分を激しく揺さぶったこと。
「そんな…そうしたら俺の気持ちはどうなるんだ。俺は凛音が好きで、別の世界から来たお前だからいいと何回も言ってるのに――」
彼が握りしめている手に力をこめた。彼の言うことは最もなことだ。
「ごめん。私がしたことはヴィクターの誠意を疑うことだった」
「そんなことはない。凛音がそうやって自分の立場をどんなに不安に思っているかは、気づいていたんだ。でもお前はいつも明るく振舞って、前向きで…俺はそんな凛音だから側にいたいと思っている」
ああ、ヴィクター、私、勇気を出して、今なら言える。
「私も、好き」
彼の漆黒の瞳を見つめて、彼に囁いた。
「誰にも渡したくない、離れたくない、ヴィクター。向こうの世界にももう帰りたくないの。貴方と一緒にいたいから。私がいつまでこの世界にいれるかは分からないけど――どうか私のこの不確かさごと、愛してください」
私はついにヴィクターに素直な心を明け渡したのだった。
彼が黙って私を抱き寄せ―――彼の額を私の頭に押し付けるようにゆっくりと抱きしめた。
「私、自分で思っていたよりとても弱かったみたい。すぐには無理かもしれないけど、貴方がいてくれたらきっと強くなれる。だからずっと隣で見ていてね」
「凛音に嫌がられても離れないからな」
それはちょっと困る、なんて強がりも今の私には言えなくなったようだ。
それからしばらくして部屋に戻ってきたヴィクターと交代してエリックは部屋を出て行った。私たち二人にしようと思って気を遣ってくれたのだろう。ヴィクターは髭も剃り落として、湯浴みもしたのか、石鹸の香りがした。
「凛音」
ヴィクターはベッドの端に腰かけ、私の左手を握った。私は暖かくて大きな彼の手をゆっくりと握り返した。
「不快な思いをさせて、悪かった―――マリアンヌ嬢は仕事の関係で知り合った」
「うん」
「仕事の内容を上の許可なく勝手に俺が話すことはできないから、詳しくは言えないんだが――マリアンヌ嬢が言っていたことは全て嘘だ。俺は彼女に求婚したことはないし、これからもすることもない。そんな素振りを見せたこともない。あいつが勝手に俺に言い寄ってきているだけなんだ」
「そっか……」
ふうっと私は息を吐いた。ちゃんと向き合って話を聞けばこうやってヴィクターはきちんと話してくれるのに。そういう人だから好きになったのに、私は何故あんな行動をしてしまったのだろう。本当に自分が恥ずかしかった。ヴィクターは顔をしかめたまま続ける。
「ああやって、他の貴族がいる前で婚約云々と話すことで既成事実を作ろうとしたんだと思う」
今から思えば、彼は唖然としていたように見えた――離れ離れだった婚約者に会えて喜んでいるようには到底見えなかった。私に自信と余裕があれば、ちゃんとわかったのに。あの一瞬、私に内なる悪魔が良からぬことを囁いたのだった。魔が差す、というのはよく言ったものだ。
「うん」
「凛音を失うかと思って、本当に怖かった」
彼の漆黒の瞳が、微かに揺れる。
「あんなどうでもいい女のために――凛音を失うなんて考えられない」
私は深呼吸をした。
「ヴィクター、今から私の話を聞いてくれる?」
ヴィクターは震える瞳で私を見返した。
「別れる、という話以外なら何でも聞く」
私はあの日、中庭で気づいた自分で見て見ぬふりをしていたこの世界での不確かさへの恐怖感を彼に話した。いつか彼を残して消えてしまうかもしれないこと、消えた後で一体どうなるかなんて誰にも分からないこと。こんな不確かな自分を愛するより、ヴィクターには自分ではなくてもっと相応しい相手がいるのではないかとずっと思っていたこと。求婚を受け入れてからも心の奥で不安がくすぶっていたこと。その自信のなさが、完璧に見える貴族令嬢が目の前に登場したときに、自分を激しく揺さぶったこと。
「そんな…そうしたら俺の気持ちはどうなるんだ。俺は凛音が好きで、別の世界から来たお前だからいいと何回も言ってるのに――」
彼が握りしめている手に力をこめた。彼の言うことは最もなことだ。
「ごめん。私がしたことはヴィクターの誠意を疑うことだった」
「そんなことはない。凛音がそうやって自分の立場をどんなに不安に思っているかは、気づいていたんだ。でもお前はいつも明るく振舞って、前向きで…俺はそんな凛音だから側にいたいと思っている」
ああ、ヴィクター、私、勇気を出して、今なら言える。
「私も、好き」
彼の漆黒の瞳を見つめて、彼に囁いた。
「誰にも渡したくない、離れたくない、ヴィクター。向こうの世界にももう帰りたくないの。貴方と一緒にいたいから。私がいつまでこの世界にいれるかは分からないけど――どうか私のこの不確かさごと、愛してください」
私はついにヴィクターに素直な心を明け渡したのだった。
彼が黙って私を抱き寄せ―――彼の額を私の頭に押し付けるようにゆっくりと抱きしめた。
「私、自分で思っていたよりとても弱かったみたい。すぐには無理かもしれないけど、貴方がいてくれたらきっと強くなれる。だからずっと隣で見ていてね」
「凛音に嫌がられても離れないからな」
それはちょっと困る、なんて強がりも今の私には言えなくなったようだ。