夏の花火があがる頃
職場に早めに到着して終えなければならない仕事をしていたら、午後はあっという間に来てしまった。
「行ってらっしゃい」と宮舘に見送られて、めぐみは東京駅まで向かう。
代官山から東京駅までは、東横線と山手線を乗り継いで約四十分ほどだ。
乗り継ぎを三回すれば三十分ほどで行けなくはないが、乗り換えの手間が面倒なので、多少時間がかかっても楽な方を選択した。
東京駅に到着し、行き交う人々の波をかき分けるようにして、八重洲口へと向かう。
改札を通り抜けると、何度もコンペの際に下見に行ったビルが目の前にそびえていた。
ビルの中に入ると、FURADAの営業担当である柏木亮が立っていた。
清潔感のあるその男は、オーダーメイドで作られている皺のないグレーのスーツがよく似合っていた。
長い脚の先にある綺麗に磨かれた茶色の革靴が彼の性格をよく表していた。
切れ長の一重に、パーツの揃った顔立ちは、今時の人気若手俳優に似ており、女性からの人気は高そうだ。
「篠原さん、お疲れ様です」
人当たりのいい笑みを浮かべながら、彼はめぐみをビルの中へと案内した。
華やかなビルの中には、一箇所だけ白い仕切りで浮いている場所があり「FURADA New open」と貼り紙がされていた。
「工事自体はもう直ぐ終わるので、あとは篠原さんの提案するインテリアを飾るだけですね。僕、篠原さんのアイディアが一番好きですし」
「ありがとうございます」
お世辞だったとしても、柏木の言葉は嬉しかった。
今の会社に入社してから、ここまで自分の仕事内容をクライアントから気に入られた経験は少なかったからだ。少しだけ自信がめぐみの中にこみ上げてきた。
「もしよかったら、今夜一緒に食事に行きませんか?」
唐突な誘いに思わずめぐみは吹き出した。
「突然ですね」
「気に入った相手が目の前にいて、思わず口に出してしまいました」
やけに神妙な面持ちで言うので、冗談なのかも真剣なのかも分からない。
異性に食事に誘われる経験など、めぐみの人生においてひどく久しい出来事なので、対応の仕方など忘れてしまった。
「ありがとうございます。でも、今夜は都合があるので、すみません」
「他の方とデートですか?」
「そういう訳ではないんですけど……」
困ったように笑って見せて、めぐみは仕事に取り掛かることにした。
特に用事はなかったが、今夜は外食をしたい気分ではなかった。
柏木の条件であれば、女性など引く手数多だろう。
めぐみが無理に、食事に行く必要もない。
「女性にこんなにきっぱり断られたのは、初めてです」
「貴重な初めて、私ですみません」
本当に初めてだったのかは分からないが、柏木は特に気にしているようには見えなかった。
今夜、柏木の隣にめぐみがいようがいまいが、彼の人生においてさしたる影響もないことが見えて少しだけ安心する。
「また誘うので、期待して待っていてくださいね」
一体どこにそのような自信があるのだろうか。
スマートフォンを片手に職場の人間からかかってきた電話に出る、柏木の後ろ姿を見ながら、めぐみは苦笑いを浮かべた。
工事が終わったばかりの店内は、ひどく簡素でがらんとしている。
めぐみはこの瞬間が一番好きだった。何も始まらない瞬間が、静寂が一番好きだ。
店内の隅に、ダンボールが何箱か置いてあった。
めぐみが発注した島田絵音という画家の絵だった。カラフルな抽象画は、この店舗によく似合うと思ったのだ。
壁に飾ると、自分の感性は当たっていたようで、めぐみは満足気な表情を一人で浮かべた。