夏の花火があがる頃
「沢口。大丈夫か?」
先輩である中村達也に声をかけられて、悠也はハッと我に返る。
職場にいるということをすっかり失念したようだった。
原因は間違い無く、昨日の出来事だった。
「すいません」
「あんまり根詰めるなよ。うちは外資だから結果を出さなきゃいけないけど、身体が壊れても自己責任でフォロー出来ないからな」
「わかってます」
「じゃあ、お疲れ」
自分の仕事が終わったらしい中村は、片手を上げてオフィスを後にしていく。
これから三歳の娘の誕生日パーティーを家でやるらしい。
アメリカの大手投資銀行ゴールドセブンでは、東京のオフィスが設立されて早十年。
ようやく軌道に乗り始めてきたところだ。
やはり日本の中で根付いている大手銀行の中に割って入るのは、なかなか難しい。
ゴールでセブンでは、IBD部門と呼ばれる、企業に合併や買収のアドバイス、資金調達の提案を行うコンサル業を担当する部門と、顧客の資産運用を行うアセット・マネジメント部門がある。
悠也が担当しているのは、IBD部門であり取り扱う企業が大きければ大きいほど世界経済にも影響が大きいので、非常に責任のある仕事だ。
結果を残さなければ、自分のポストもあっという間になくなってしまうので、誰しもが仕事に対して必死だ。
決して能力の低い人達ばかりではないので、その中で働くことは楽しかった。
大学までの自分の周りはつまらない人間ばかりだといった感情は、社会に出て持つことは少なくなったように感じる。
しかし、時間のコントロールに気をつけなければ、あっという間に過労で倒れてしまう社員も少なくないので、気をつけなくてはならなかった。
特に、若手は雑用もこなしていかなければならないので、業務が通常の倍となる。
机の引き出しの中には、赤い牛のイラストが描かれたエナジードリンクと黄色い箱に入っている栄養調整食が常備されている。
普段は、休日出勤など死んでもするものかといったスタンスで働いているのだが、悠也が日曜日に仕事に出ていることには理由があった。
「あれ、絶対めぐみだったよな」
一階のロビーフロアのど真ん中で、篠原めぐみが悠也のことを見ていた。
髪の毛は当時より短くなっていたが、彼女であったことには間違いない。
何よりも悠也と目が合った瞬間、走り出して行ってしまったことが彼女であったことを証拠付けていた。
彼女があの場所にいたのかは皆目見当もつかないが、彼女であったのであれば話をしないといけないことがたくさんある。
小さくため息をついて、デスクの上にあるパソコンの電源を切った。
それと同時に、スマートフォンの画面が着信を告げる画面に切り替わる。彼女の花木萌だった。
今日はこの後、デートの約束をしていたのだ。
「仕事終わった?仕事の虫くん」
嫌みたらしく言う口調は、機嫌の悪い証拠だ。
本当は昼間からゆっくりと一緒に過ごすはずだったのに、急な仕事と嘘をついて夕方からにしてもらったのだ。
その夕方の約束している時間も過ぎているので、機嫌が悪いのは当たり前のことだった。
「ごめん。今から行く」
「早く来て」
あたりがキツくなったのは、いつからだっただろうか。
彼女が二十六を過ぎたたりから結婚を意識するような言動が増えた。
悠也からすれば、結婚などまだまだ先の話だと思っていたので、彼女がその話題を出してきた時には、ひどく驚いた記憶がある。
しかし、思ったことをハッキリと言い合える関係というのは非常に居心地の良いもので、当時は彼女と別れる気は無かった。
結局、結婚したい彼女と、結婚をまだ考えていない悠也の微妙にバランスの悪い関係がズルズルと続いてしまっている。
いつの間にか、ハッキリと言い合える仲ではなくなってしまっていた。
待ち合わせ場所に到着すると、シャネルのバッグを持った不機嫌な女がそこに立っていた。
「ごめん。飯は奢る」
「当たり前」
「ごめんな」
「……」
空気の悪さが、重い。本当だったら、めぐみの事を待っていたかった。
本音など言ってしまったら刺されかねないので言わないが。
新丸ビルの中にあるAW kitchen TOKYOというお店は、萌のお気に入りの店だった。
吹き抜けの天井から夕日が差し込んでいて、店内を幻想的に照らしていた。
テーブルの上に置いてあるランプを眺めながら、彼女が料理を選ぶのを待った。
「……これがいい」
決め始めてから十数分。ようやく決まった料理は、いつも彼女が頼むトマトパスタだった。