夏の花火があがる頃
第3話 優しいキス
 雨が降った次の日は、五月なのにも関わらず、茹だるような暑さに辟易する。

 まるで真夏のような天気に、半袖のシャツを着てくればよかったと、めぐみはひどく後悔した。

 額からこぼれ落ちる汗をハンドタオルで拭いながら、今日も東京駅で人混みをかき分けた。

 平日の昼間といえども、この駅はたくさんの人で溢れている。

 各地からの中継地点であるこの駅は、人種も性別も様々な人間が存在する。

 八重洲口を出て、FURADAの店舗に向かう。

 今日のスケジュールは、棚に飾る小物の選定をした後、田園調布在住の老夫婦の家に行き、会社に戻って報告書を記載したら終了だ。

 仕事を何件も抱えている時期は、それだけでハードだ。

 ビルの中に足を運び、少しばかり怯えたように、めぐみは辺りを見回した。そこに悠也の姿がいないとわかるとホッとする。心の準備が出来ていなかった。

「お疲れ様です」

 柏木が待ち構えていたように、めぐみをFURADAの店舗の中に案内した。

「お疲れ様です。柏木さん」

「篠原さん、今日はランチなんてどう?」

「すいません。今日は、昼から田園調布に行かなきゃいけないので」

「残念」

「すいません」

「また誘うからいいよ」

 ケラケラと笑って、柏木は言った。
 
 めぐみの何がそんなに気に入ったのかは分からないが、彼は、かなりめぐみのことを気に入っているようだ。

 柏木の後輩の男の子がめぐみにこっそり耳打ちしてくれた。

「今日はカタログを持ってきたのですが、うちの取引先のカタログの中で、このページの商品なんかはとても雰囲気に合うと思います」

 テーブルの上にカタログを置いて、指をさしながら説明すると「いいね。それで」と柏木は嬉しそうに言った。

「そんな簡単に決めてしまって、大丈夫なんですか?」

「権限は全部僕に任されています。予算内でしたらお好きにしていただいて大いに結構です。前も言いましたけど、篠原さんのセンス僕好きなんで」

 直球で言われると、柏木に少しも興味がないめぐみでもドキッとした。

「ドキッとしました?」

「な、何言ってるんですか」

 見透かされたような言葉に、声が上擦る。

 顔を背けると彼の言葉を認めることになるような気がしたので、しっかりと柏木の顔を見た。

「冗談ですよ。すみません。調子に乗りすぎました」

「いいえ、別に大丈夫です」

 落ち込んだ表情は、計算なのだろうか。
 
 なぜか憎めない柏木のキャラクターに、めぐみは思わず吹き出してしまった。

「なんで笑うんです?」

「ごめんなさい。なんだか失礼なのかもしれないんですけど、仔犬っぽくて」

「仔犬ですか?」

 彼女の言葉は心外だったらしく「同じ犬でも、シェパードとかドーベルマンとかカッコイイ犬種でしたらいいですが」とブツブツ呟いていた。

「冗談ですよ。すみません。調子に乗りすぎました」

 落ち込む柏木に、今度はめぐみが同じ言葉を返した。

「怒ってなんかいないですよ。一緒にご飯いってくれれば」

 ニヤリと笑って言う柏木に「なんですか、それ」とめぐみも笑った。

 しかし、悠也にまた再会する可能性があるかもしれないといった不安を拭うことはできなかった。

< 8 / 75 >

この作品をシェア

pagetop