私の好きな彼は私の親友が好きで
気が付くと、彼はもう、緩んだネクタイも直し、ジャケットも着ていた。
「お待たせ。帰ろう」
自然に、手を繋ぎ専務室を出ると、佐伯さん以外の秘書の男性が居て、
私達の手を見てギョッとしたのが解り、離さそうと思った時には
更に力が込められていた。
最初は2人しか乗っていなかったエレベーターが、定時時間を少し過ぎた
時間なので、何回か停止し、社員が乗り込み薫さんを見て、緊張し、挨拶して
握られている手を見てギョッとする動作を何人もし、箱の中に微妙な空気が
流れ、女性社員が乗った時は小さな悲鳴が上がった・・
やっぱり、人気あるよね・・それが嬉しく、悲しかった。
その、女性社員が昭和物産の八木沼さんと被ったから。
誰に何を聞かれるも無く、想像だけがきっと箱の中で繰り広げられて
いるのだろう・・1Fで殆どの社員が下りて、扉が閉まった瞬間に
「専務、本当に結婚していた~~」の嘆き声が箱の中にまで響き、
思わず顔を見合わせ、苦笑いをしてしまった。
あ、この感覚久しぶり・・・
この幸せで良しとしないとならないのだろう・・
これだって、多分誰よりも幸せなのに・・
もっと、もっとと、望む私は欲深いだけなんだろうか・・
幸せのラインが解らない。
もし、八木沼さんの会話を聴いていなかったら、私は充分満足していた。
だから、その会話を忘れたら、幸せだった頃に戻れる?
そんな不安定な感情を、幼い私はコントロール出来ず、持て余してしまう。
「もっと、大人だったら・・」そう呟いた声を聞き逃す相手では無い・・
「君を子供だと思った事は1度も無いよ。」
その言葉は、どんな意味をもっているのだろう?
「食材、買って帰らないと・・」家の冷蔵庫は空っぽだ・・
「今日は、デリバリーにしよう・・その方が時間が取れる。」
そうだった、今朝「話し合おう」と言われたばかりだった・・
怖い・・確認して他に大事な人が居ると言われるのが・・
でも、この状態では近い将来、確実に私の心は壊れる・・それも解ってる。
一層の事、壊れてしまった方が楽になれるかもしれない・・
そんな愚かな事を考えるのも、幼さ故なのだろうか・・
車窓が慌ただしく歩く人を拾う・・皆が幸せそうに家路についている・・
私みたいに悩みを抱えている人は、この幸せそうな人の中にいるのだろうか?
「ただいま帰りました。」玄関に入りながら、呟くように声を出すと、
薫さんも「ただいま」と優しく微笑みながら口にする。
ここに住んで7か月ちょっと・・高遠の家で過ごした年月より、全然短いのに
私の中では此処がもう我が家になっている。
その事実が切ない。
「美月、先にお風呂にしよう。美月が入っている間に夕食頼むから。
何が食べたい?」
食欲なんてある訳無い・・
「薫さんが選んでください。」
(薫さん・・八木沼さんもそう呼んでいた・・嫌だな・・)
心がささくれ立っている・・・
お風呂から出ると、彼もシャワーを浴びた後だと解る・・
デジャブ?気が付けば彼の足元で髪の毛を乾かして貰っている・・
優しくしないで、愛されていると錯覚するから・・
スンと鼻の奥で・・堪えようとするものが込み上げる。
止めて、今は・・頑張れ!私・・ここで泣くのは卑怯だ。
薫さんが選んだのは誰でも知っている料亭の夕食だった。
(ここも、デリバリーしてくれるんだ・・)
多分、最高に美味しいのだろう・・でも、私はこの後の事を
考えると味も、食感も何も感じない・・砂を食べているとは
こういう事なのだろうか?