佳麗になりたい
麗華が本日の代金を支払って外に出ると、外は土砂降りの雨であった。
麗華は鞄から折りたたみ傘を取り出すと、傘を広げた。
駅に向かいながら、麗華は頭の中で明日の予定を反芻した。
(明日は会議があるから、その前に上司に書類を提出して、それから夜のフィットネスクラブの予約時間までに、その日の仕事を全部終わらせて……)
その時、麗華の視線の先には一人の男性がいた。
ファストフード店の軒先で困ったように空を見上げていたのは桂木であった。
(桂木さん? どうして、ここに……?)
桂木を無視して駅に向かう事も出来たが、なんとなく麗華は桂木が居るファストフード店に近づいて行ったのだった。
「桂木さん?」
「先輩? どうしてここに……。もう帰ったのかと思っていました」
麗華が声を掛けると、桂木は目を大きく見開いた。
「私は寄り道をしていたので……。ところで、桂木さんはどうしてここに?」
「仕事が終わったらこんな時間だったので、とりあえず会社近くのこの店で夕食を済ませたんです。帰宅してからだと遅くなるので」
麗華と別れて会社に残って仕事をしていた桂木だったが、帰り際の上司から明日の会議資料の追加を頼まれたらしい。
それが終わって会社を出たら、既に遅い時間になっていた。
このまま自宅に帰っていると、益々遅い時間になるので、とりあえず会社近くのこのファストフード店で夕食を済ませる事にしたらしい。
すると、夕食を食べている間に、一度小雨になった雨は土砂降りに変わって、帰れなくなったそうだ。
「全く……。上司も定時を過ぎてから頼まなきゃいいのに……」
呆れたようにため息をつく麗華に、桂木は慌てた。
「けれども、それをやると言ったのは俺です。上司は何も……」
「桂木さんも、会議資料なんて明日の朝一でいいんですよ。なんなら、私も手伝ったのに」
会議は明日の昼からだったので、朝一で資料を用意すれば間に合うだろう。
わざわざ、今日中に用意をする必要もない。
「すみません。そこまで気が回らなくて……」
「いいえ。桂木さんは悪くありません。それより、傘は持っていないんですか?」
「会社に置いてきてしまって……。今夜は晴れると聞いていたので」
桂木の言う通り、今朝の天気予報では朝から降っていた雨は、夜には晴れると言っていた。
けれども、夜になっても雨は晴れるどころか土砂降りになったのだった。
麗華が周囲を見回すと、他にも傘を持っていないと思しき人達が、あちこちの店先や軒下で雨宿りをしていた。
「俺は雨が止んでから帰ります。先輩は早く帰った方が……」
「桂木さんって、確か電車で通勤されていましたよね?」
「はい。そうですが……?」
以前、桂木が入社したばかりの頃、高森が聞いていたのを麗華も一緒に聞いていた。
桂木は七つ先の駅から会社がある駅まで、電車で通勤しているらしい。
一方の麗華も、会社がある駅前から出ているバスで通勤していたのだった。
「桂木さんが良ければ、駅まで一緒に行きませんか?」
「先輩の気持ちは嬉しいですが、さすがに悪いですし……」
「気にしないで下さい。元はと言えば、私が桂木さんを置いて先に帰ったのが悪いですし」
桂木が入社するまで、会議資料の用意は麗華の業務であった。
その際にも、上司には散々、資料の追加を会議の用意が終わった後にされていた。
会議資料の用意が麗華から桂木に変わっても、上司が変わらない限り、後から会議資料が追加される事は予想できた筈だった。
それを放っておいて、桂木を置いて帰ってしまったのは麗華の落ち度だった。
(高森さんだったら、絶対にこうはならなかっただろうな……)
麗華が終業後に泣く泣く追加された会議資料の用意をしていると、常に手伝ってくれたのは先輩の高森であった。
会議まで時間があるのがわかると、高森は麗華から資料を取り上げた。
そうして、「明日やろう! 今からやってもミスるだけ」と言って、麗華を飲みに連れて行き、帰り際に会議資料の追加を渡してきた上司の愚痴を聞いてくれたのだった。
そんな高森に助けられた経験があるから、麗華も桂木を助けたいと思っていた。
それなのに、麗華は自分の事ばかりを考えて、桂木を見捨ててしまった。
「先輩は何も悪くありません。仕事が終わったのなら、退勤するのが当たり前です。特に、最近、慌ただしく退勤されているようですし……」
「それは……!」
まさか、桂木にフィットネスクラブやエステティックサロンの予約時間に遅れないように慌てて帰っているとは言えなかった。
それで、麗華は適当に誤魔化す事にしたのだった。
「さ、最近、実家から頻繁に連絡が来ていて、早く返事をしないと心配をするから、それで慌ただしく帰っちゃって……」
「そうなんですか……?」
「そうなの!」
麗華自身も苦しい言い訳だと思う。
桂木は考え込んでいるようだったが、やがて頷いたのだった。
「では、先輩のお言葉に甘えて。駅か途中で傘を売っているお店まで、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「勿論です! さあ、どうぞ!」
頭一つ半近く背の高い桂木の身長に合わせるように、麗華が傘を持ち上げる。
桂木は傘の中に入ると、麗華が持ち上げる傘を掴んだのだった。
「俺の方が先輩より背が高いので、俺が傘を持ちます。先輩が傘を持っていたら腕が疲れると思うので」
「いいんですか?」
「これくらいはさせて下さい」
麗華が傘から手を離す時、傘を掴む桂木の手とぶつかってしまった。
「すみません」と麗華が謝ると、「こちらこそ」とだけ返して、桂木は目を逸らしたのだった。
そうして、二人は駅に向かって歩き出したのだった。
ザアッと音を立てて雨が降る中、二人は無言で歩く。
駅に向かいながら、途中のコンビニやドラッグストアを覗いてみるが、時間が遅いからか、それとも桂木の様に傘を持っていない人が買ってしまったのか、傘は残っていなかった。
「傘、売ってないですね……」
「そうですね……」
桂木は片手で麗華の傘を持ちながら、反対の手でスマートフォンを使っていた。
どうやら、文章を打っているようだった。
「あの、やっぱり私が傘を持ちましょうか?」
スマートフォンから顔を上げた桂木が、慌てたように麗華を振り返った。
「すみません。スマホに夢中になって、濡れてしまいましたか?」
「いいえ。そういう訳じゃないんです! ただ、傘が傾いて、桂木さんの肩が濡れてしまっているので……」
桂木がスマートフォンを使うたびに、傘を持つ手は麗華の方に傾いていた。
そうすると、桂木がスマートフォンを持っている側の肩が、雨で濡れてしまっていたのだった。
「ああ……。傘を頼むのに夢中になって、すっかり忘れていました」
「はあ……。そうなんですか……」
桂木はスマートフォンを胸ポケットにしまうと、傘を持ち直したのだった。
二人が歩いていると、駅前の大きな横断歩道に差し掛かった。
赤信号の横断歩道の前で立ち止まっていると、二人の目の前を車がスピードを上げて通り過ぎて行った。
そのスピードを受けて、道路脇に溜まっていた水たまりが麗華達に向かって跳ねたのだった。
(やばっ……!)
麗華が顔を背けると、桂木が麗華を庇ってくれた。
跳ねた水で、桂木の左半身は濡れてしまったのだった。
「す、すみません! 桂木さん!」
間近で見た桂木は、水に濡れて不機嫌そうな顔をしていた。
麗華は泣きそうな顔で慌てて鞄を探ると、ハンカチを取り出したのだった。
「これくらい、大した事ではありません」
「で、でも! 私を庇った事で、桂木さんが濡れてしまって……!」
麗華は桂木の頬を流れる水を拭こうと、背伸びをした。
すると、桂木は目を大きく見開いて、麗華を見つめてきたのだった。
「先輩」
「な、なに?」
桂木は笑みを浮かべると口を開いた。
「最近、キレイになった?」
麗華は何度も瞬きを繰り返した。
「えっと……。それって……?」
「こういう事をはっきり言うのは失礼だとわかっています。けれども、言わせて下さい。最近の先輩は綺麗になったと思って」
「そ、そうでしょうか?」
麗華の顔が赤く染まっていくのを感じた。
桂木からそっと目を逸らす。
「間近で見て確信しました。以前よりも、いえ! 以前から綺麗でしたが、更に綺麗になったような気がして!」
二人がそう話している間に、信号は青に変わっていた。
「行きましょう。桂木さん」
麗華はハンカチを鞄にしまうと、桂木と一緒に横断歩道を渡ったのだった。
麗華は鞄から折りたたみ傘を取り出すと、傘を広げた。
駅に向かいながら、麗華は頭の中で明日の予定を反芻した。
(明日は会議があるから、その前に上司に書類を提出して、それから夜のフィットネスクラブの予約時間までに、その日の仕事を全部終わらせて……)
その時、麗華の視線の先には一人の男性がいた。
ファストフード店の軒先で困ったように空を見上げていたのは桂木であった。
(桂木さん? どうして、ここに……?)
桂木を無視して駅に向かう事も出来たが、なんとなく麗華は桂木が居るファストフード店に近づいて行ったのだった。
「桂木さん?」
「先輩? どうしてここに……。もう帰ったのかと思っていました」
麗華が声を掛けると、桂木は目を大きく見開いた。
「私は寄り道をしていたので……。ところで、桂木さんはどうしてここに?」
「仕事が終わったらこんな時間だったので、とりあえず会社近くのこの店で夕食を済ませたんです。帰宅してからだと遅くなるので」
麗華と別れて会社に残って仕事をしていた桂木だったが、帰り際の上司から明日の会議資料の追加を頼まれたらしい。
それが終わって会社を出たら、既に遅い時間になっていた。
このまま自宅に帰っていると、益々遅い時間になるので、とりあえず会社近くのこのファストフード店で夕食を済ませる事にしたらしい。
すると、夕食を食べている間に、一度小雨になった雨は土砂降りに変わって、帰れなくなったそうだ。
「全く……。上司も定時を過ぎてから頼まなきゃいいのに……」
呆れたようにため息をつく麗華に、桂木は慌てた。
「けれども、それをやると言ったのは俺です。上司は何も……」
「桂木さんも、会議資料なんて明日の朝一でいいんですよ。なんなら、私も手伝ったのに」
会議は明日の昼からだったので、朝一で資料を用意すれば間に合うだろう。
わざわざ、今日中に用意をする必要もない。
「すみません。そこまで気が回らなくて……」
「いいえ。桂木さんは悪くありません。それより、傘は持っていないんですか?」
「会社に置いてきてしまって……。今夜は晴れると聞いていたので」
桂木の言う通り、今朝の天気予報では朝から降っていた雨は、夜には晴れると言っていた。
けれども、夜になっても雨は晴れるどころか土砂降りになったのだった。
麗華が周囲を見回すと、他にも傘を持っていないと思しき人達が、あちこちの店先や軒下で雨宿りをしていた。
「俺は雨が止んでから帰ります。先輩は早く帰った方が……」
「桂木さんって、確か電車で通勤されていましたよね?」
「はい。そうですが……?」
以前、桂木が入社したばかりの頃、高森が聞いていたのを麗華も一緒に聞いていた。
桂木は七つ先の駅から会社がある駅まで、電車で通勤しているらしい。
一方の麗華も、会社がある駅前から出ているバスで通勤していたのだった。
「桂木さんが良ければ、駅まで一緒に行きませんか?」
「先輩の気持ちは嬉しいですが、さすがに悪いですし……」
「気にしないで下さい。元はと言えば、私が桂木さんを置いて先に帰ったのが悪いですし」
桂木が入社するまで、会議資料の用意は麗華の業務であった。
その際にも、上司には散々、資料の追加を会議の用意が終わった後にされていた。
会議資料の用意が麗華から桂木に変わっても、上司が変わらない限り、後から会議資料が追加される事は予想できた筈だった。
それを放っておいて、桂木を置いて帰ってしまったのは麗華の落ち度だった。
(高森さんだったら、絶対にこうはならなかっただろうな……)
麗華が終業後に泣く泣く追加された会議資料の用意をしていると、常に手伝ってくれたのは先輩の高森であった。
会議まで時間があるのがわかると、高森は麗華から資料を取り上げた。
そうして、「明日やろう! 今からやってもミスるだけ」と言って、麗華を飲みに連れて行き、帰り際に会議資料の追加を渡してきた上司の愚痴を聞いてくれたのだった。
そんな高森に助けられた経験があるから、麗華も桂木を助けたいと思っていた。
それなのに、麗華は自分の事ばかりを考えて、桂木を見捨ててしまった。
「先輩は何も悪くありません。仕事が終わったのなら、退勤するのが当たり前です。特に、最近、慌ただしく退勤されているようですし……」
「それは……!」
まさか、桂木にフィットネスクラブやエステティックサロンの予約時間に遅れないように慌てて帰っているとは言えなかった。
それで、麗華は適当に誤魔化す事にしたのだった。
「さ、最近、実家から頻繁に連絡が来ていて、早く返事をしないと心配をするから、それで慌ただしく帰っちゃって……」
「そうなんですか……?」
「そうなの!」
麗華自身も苦しい言い訳だと思う。
桂木は考え込んでいるようだったが、やがて頷いたのだった。
「では、先輩のお言葉に甘えて。駅か途中で傘を売っているお店まで、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「勿論です! さあ、どうぞ!」
頭一つ半近く背の高い桂木の身長に合わせるように、麗華が傘を持ち上げる。
桂木は傘の中に入ると、麗華が持ち上げる傘を掴んだのだった。
「俺の方が先輩より背が高いので、俺が傘を持ちます。先輩が傘を持っていたら腕が疲れると思うので」
「いいんですか?」
「これくらいはさせて下さい」
麗華が傘から手を離す時、傘を掴む桂木の手とぶつかってしまった。
「すみません」と麗華が謝ると、「こちらこそ」とだけ返して、桂木は目を逸らしたのだった。
そうして、二人は駅に向かって歩き出したのだった。
ザアッと音を立てて雨が降る中、二人は無言で歩く。
駅に向かいながら、途中のコンビニやドラッグストアを覗いてみるが、時間が遅いからか、それとも桂木の様に傘を持っていない人が買ってしまったのか、傘は残っていなかった。
「傘、売ってないですね……」
「そうですね……」
桂木は片手で麗華の傘を持ちながら、反対の手でスマートフォンを使っていた。
どうやら、文章を打っているようだった。
「あの、やっぱり私が傘を持ちましょうか?」
スマートフォンから顔を上げた桂木が、慌てたように麗華を振り返った。
「すみません。スマホに夢中になって、濡れてしまいましたか?」
「いいえ。そういう訳じゃないんです! ただ、傘が傾いて、桂木さんの肩が濡れてしまっているので……」
桂木がスマートフォンを使うたびに、傘を持つ手は麗華の方に傾いていた。
そうすると、桂木がスマートフォンを持っている側の肩が、雨で濡れてしまっていたのだった。
「ああ……。傘を頼むのに夢中になって、すっかり忘れていました」
「はあ……。そうなんですか……」
桂木はスマートフォンを胸ポケットにしまうと、傘を持ち直したのだった。
二人が歩いていると、駅前の大きな横断歩道に差し掛かった。
赤信号の横断歩道の前で立ち止まっていると、二人の目の前を車がスピードを上げて通り過ぎて行った。
そのスピードを受けて、道路脇に溜まっていた水たまりが麗華達に向かって跳ねたのだった。
(やばっ……!)
麗華が顔を背けると、桂木が麗華を庇ってくれた。
跳ねた水で、桂木の左半身は濡れてしまったのだった。
「す、すみません! 桂木さん!」
間近で見た桂木は、水に濡れて不機嫌そうな顔をしていた。
麗華は泣きそうな顔で慌てて鞄を探ると、ハンカチを取り出したのだった。
「これくらい、大した事ではありません」
「で、でも! 私を庇った事で、桂木さんが濡れてしまって……!」
麗華は桂木の頬を流れる水を拭こうと、背伸びをした。
すると、桂木は目を大きく見開いて、麗華を見つめてきたのだった。
「先輩」
「な、なに?」
桂木は笑みを浮かべると口を開いた。
「最近、キレイになった?」
麗華は何度も瞬きを繰り返した。
「えっと……。それって……?」
「こういう事をはっきり言うのは失礼だとわかっています。けれども、言わせて下さい。最近の先輩は綺麗になったと思って」
「そ、そうでしょうか?」
麗華の顔が赤く染まっていくのを感じた。
桂木からそっと目を逸らす。
「間近で見て確信しました。以前よりも、いえ! 以前から綺麗でしたが、更に綺麗になったような気がして!」
二人がそう話している間に、信号は青に変わっていた。
「行きましょう。桂木さん」
麗華はハンカチを鞄にしまうと、桂木と一緒に横断歩道を渡ったのだった。