メガネをはずした、だけなのに
テンポが急激に早くなって、技術的に最も難しい曲を華麗に弾きこなす。
賢斗くんの細くて柔らかい指先に、目を奪われてしまう。
かと思えば、左手から溢れ出るメロディーは、超絶技巧と感情豊かな旋律で輝いてる。
乾いた空気の会場内が、美しい音色に包まれて私の耳に響いてくる。
客席の誰もが口を噤み、賢斗くんの演奏を見入ってた。
コンテストで上位を狙うには、ノーミスが絶対条件。
目を瞑って、鍵盤の上に指を乗せる賢斗くん。
まるで、自動演奏のような完璧演奏を続けてる。
鍵盤を叩くのではなく、指先を優しく乗せる感じ。
音楽的な流れ、旋律と伴奏のバランスを大切に。
踏み込むペダリングで曲の音色を変え、会場の観客たちを魅了していく。
曲を適切に表現する力、そして構成力。
特別な事はしないで、ただノーミスを貫くだけ。
いつの間にか、演奏者でもないのにショパンが作った曲に感情移入していく。
私の目尻から頬を伝って流れ落ちる涙が止まらない。
溢れ出る涙を手の甲で拭わず、賢斗くんの演奏を見続けた。
ゆっくりと音色が色彩を帯びていくのを耳にして、私は涙を流し続ける。
鋭い右手のリズム、左手のアルペジオもはまっていた。
旋律とバス、そしてレガート。
淡い色彩を帯びた音色は、演奏を終盤に向かわせていく……
ゆっくりと曲を弾き終えた賢斗くんは、立ち上がって客席を前に頭を下げた。
鳴り止まない拍手とブラボーの声、頷きながら評価表に採点を書き込む審査員たち。
礼を終えて頭を上げた賢斗くんが、客席から立ち上がって拍手をする私に視線を向けている。