変装令嬢オリアーヌの反撃〜婚約破棄に応じない相手を決心させる方法〜
まだ幼いころ、お祖母様の屋敷で留守番をしていたときのことだ。
お兄様たちは狩りにでかけたが、幼い私は連れて行ってはもらえなかった。ふてくされる私に、お祖母様は不思議な仮面を手渡した。
真っ白な仮面は目と口の部分だけ穴が空いているものだ。首を傾げると、お祖母様は含みのある笑みを見せた。
『これはね、別人になれる仮面だよ』
一つしかないから、誰にも教えてはいけないと言われた。以来、この秘密を知っているのは信頼している侍女のニーナと、親友の王女ジュエラだけである。
私は馬車の中で仮面をつけた。馬車の窓ガラスに映る私はそばかすが愛らしい女性へと変化する。
この仮面をつけると、不思議なことに別人になれるのだ。
と、言っても顔だけ。体型や声はオリアーヌのままだった。しかも、顔に種類があるわけでもない。私はこのそばかすの女性にしかなれないのだ。どんな仕掛けか分からないけれど、私の成長に合わせてそばかすの女性も年を取る。
お祖母様がつけて見せてくれたときは、優しい顔が意地の悪そうな怖い顔に変化していた。
馬車はいつもの場所――街の外れにあるアパルトマンへとたどり着く。ここは私が別名義で借りているアパルトマンで、変装したときの隠れ家に使っている場所だ。両親すら知らない。
この仮面をつけているときだけ、私はなんの肩書きも持たないただの女になれるのだ。
アパルトマンで着替えを済まし、夜会の会場へと足を踏み入れる。
入ってすぐ、女たちの集団が私を盗み見た。
「あの方、見たことある?」
「さあ? でも、女性が一人で夜会に来るなんて……」
ああ、かわいそう。
嘲笑が聞こえてくるようだわ。こんな風に鼻で笑われることも楽しく感じる。
変装中の私――……あたしの名前はソフィア。よくある名前だからつけた。とくに意味はない。田舎から出てきた男爵家の娘という設定にしている。
茶色のカツラをかぶって、街の端にある中古のドレスを扱う店で買ったドレスを着れば、あたしはオリアーヌではなくなるのだ。
この格好で小さくも大きくもない夜会に参加する。それが小さな楽しみ。
ずっとオリアーヌ・メダンでいると肩がこる。いつも人に囲まれているせいだと思う。お父様やお兄様と近づきたい人、王族と縁を繋ぎたい人、次期公爵夫人となるオリアーヌと今から親しくなっておけば利があるかもしれないと考える人。
野心を隠してくれない人が多すぎて、社交界デビューしてから三年、社交が好きではなくなった。けれど、夜会の雰囲気やダンス、美味しい軽食は嫌いじゃない。
ある日、なんとなく仮面をつけてこっそり参加した夜会で気づいたのだ。この仮面をつけているときのほうが楽しいと。
気づけば、オリアーヌ・メダンとして参加する頻度よりもソフィアとして夜会に参加する頻度のほうが増えてしまった。
それにしても今日はお洒落な人が多い気がする。中規模な夜会は下位の貴族が多く集まるから、もう少し地味になることが多いんだけど。あまり考えても仕方ないわね。とりあえず、腹越しらしなくちゃ。今日のお茶会は王妃様の話がつきなくて、ケーキを食べ損ねてしまったのだ。
「お嬢さん、よろしければ一曲いかがですか?」
美味しそうな軽食を物色しようとしていたのに、見知らぬ男に声をかけられてしまった。食べてばかりでは太ってしまうし、ちょうどいいかしら。
「喜んで」
笑顔で答えた。
振り回されるようなダンス。ハインツみたいに優雅で優しいエスコートとは違う。けれど、小さいころお父様に振り回してもらう遊びに似ていて悪くない。
目が回りそうなのが欠点だ。
「見ない顔だね」
「田舎から出て来ているから、あまり社交場には通っていないの」
「さっき一人で入ってくるのを見かけたけど、一人で来たの?」
「ええ、おかしい?」
「いや、こっちでは家族とかフィアンセがエスコートするからさ」
「そう、田舎では一人で参加するのも普通なの」
知らないけど。
堂々と言えば、男は納得顔で頷いた。
「もしかして、君もこの国の二大貴公子を拝みに来たとか?」
「え?」
二大貴公子? 首を傾げる。二大貴公子といえば、言わずもがな。王太子のヴィンセントと公爵家の長男であるハインツなのだが。
「二人がこんなところに来るわけないわ」
オリアーヌをよく知る人が来るかどうかは全部調査済みなんだから。ハインツは夜会に無関心。王宮で行うような絶対に行かなくちゃいけないような夜会以外は全部招待状をゴミ箱に捨てるほどだ。
ヴィンセントは妹のジュエラに調べてもらったけど、今日は出かける予定はないと言っていた。
「普通ならね。けど、今日の主催者は二人の学院時代の同級で仲がよかったらしい。誕生日にサプライズのために呼ばれたんだ」
「……サプライズなのにやけに詳しいじゃない?」
「まあ、そりゃあ呼んだのは俺の兄貴だからね」
男は自慢げに笑って見せた。
荒いダンスはもう終盤。私はよろけてしまった。衝撃の情報に目が回ったのか、ダンスに目が回ったのかよく分からない。
間一髪で男が抱き留めてくれたけど、お礼を言う間もなく会場がざわめいた。
「きゃーっ! 本当にいらしたわ! 王太子殿下とハインツ様!」
「噂は本当だったのね! 今日来て正解~」
「やだっ! 今、目が合ったわ~!」
黄色い声が飛び交う。
……悪夢だわ。さほど大きくない会場でヴィンセントとハインツが一緒にいるなんて! まるであたしは二匹の狼の中が入っている折の中に入れられた子ウサギ。
夢なら冷めて……。願いながら人の隙間からのぞき見ると、見慣れた男が二人、闊歩していた。
久しぶりに見る婚約者のハインツは相変わらず整った顔をしている。有名な彫刻家が彫ったと言われても頷いてしまうくらい芸術的な顔立ちなのよ。蜂蜜を溶かして作ったような艶のある金髪といい、空のように澄んだ青い瞳といい。もう完璧。白い羽が生えていないのがおかしいと思う。私の目には大きな羽が見える。
隣にいるヴィンセントは割愛。口さえ開かなければハインツと並んでもひけを取らないどころか、お互いを引き立てあっているようなのだ。が、私には彼の背中には黒い羽が見える。悪魔にしか見えない。
ヴィンセントはいいとして、婚約者であるハインツには挨拶がしたいという気持ちは大いにある。……が、バレたら仮面は没収。バレたらもう遊べない……! バレたら、絶対ヴィンセントに生涯ネタにされる!
思わず一人で頭を抱えた。
「大丈夫? そんなに二人の貴公子が気になるなら、兄貴に頼んで紹介してもらおうか?」
男はあたしの顔を覗き込む。君のことなんてすっかり忘れていたわ。紹介は絶対駄目だ。
「ごめんなさい。ええと、用事を思い出したの」
にこやかに挨拶をしたあとはそそくさと会場の隅へと逃げた。
問題は、この会場がさほど大きくはないということ。そして、馬車は約束の時間まで迎えに来ないということだ。
「さすがに外で待つには寒すぎるのよね」
誰も手をつけていない軽食を口に放り込む。こんなときでも腹ごしらえは大切よ。二匹の狼との戦が始まるんですもの。
「具合の悪いふりをしてどこか部屋を借りるとか? でも大事になったら二人に気づかれそう」
ついつい独り言がはかどってしまう。悪い癖だ。
もっと穏便に隠れないと。あ、このエビの料理美味しい。ここのシェフは腕がいいわ。
「いっそのこと楽しんじゃう?」
目立たなければ大丈夫。だって、二人の周りには今も人だかりができている。そして、今のあたしはどこにでもいるその他大勢と変わらない。
二大貴公子なんて呼ばれる彼らが近づいてこないその他大勢に気を取られるだろうか?
人の集合体からうまく離れればいいわけで。目立つような行いさえしなければ……。
「うん、いける」
小さな独り言を呟きながら、大いに頷いた。
お兄様たちは狩りにでかけたが、幼い私は連れて行ってはもらえなかった。ふてくされる私に、お祖母様は不思議な仮面を手渡した。
真っ白な仮面は目と口の部分だけ穴が空いているものだ。首を傾げると、お祖母様は含みのある笑みを見せた。
『これはね、別人になれる仮面だよ』
一つしかないから、誰にも教えてはいけないと言われた。以来、この秘密を知っているのは信頼している侍女のニーナと、親友の王女ジュエラだけである。
私は馬車の中で仮面をつけた。馬車の窓ガラスに映る私はそばかすが愛らしい女性へと変化する。
この仮面をつけると、不思議なことに別人になれるのだ。
と、言っても顔だけ。体型や声はオリアーヌのままだった。しかも、顔に種類があるわけでもない。私はこのそばかすの女性にしかなれないのだ。どんな仕掛けか分からないけれど、私の成長に合わせてそばかすの女性も年を取る。
お祖母様がつけて見せてくれたときは、優しい顔が意地の悪そうな怖い顔に変化していた。
馬車はいつもの場所――街の外れにあるアパルトマンへとたどり着く。ここは私が別名義で借りているアパルトマンで、変装したときの隠れ家に使っている場所だ。両親すら知らない。
この仮面をつけているときだけ、私はなんの肩書きも持たないただの女になれるのだ。
アパルトマンで着替えを済まし、夜会の会場へと足を踏み入れる。
入ってすぐ、女たちの集団が私を盗み見た。
「あの方、見たことある?」
「さあ? でも、女性が一人で夜会に来るなんて……」
ああ、かわいそう。
嘲笑が聞こえてくるようだわ。こんな風に鼻で笑われることも楽しく感じる。
変装中の私――……あたしの名前はソフィア。よくある名前だからつけた。とくに意味はない。田舎から出てきた男爵家の娘という設定にしている。
茶色のカツラをかぶって、街の端にある中古のドレスを扱う店で買ったドレスを着れば、あたしはオリアーヌではなくなるのだ。
この格好で小さくも大きくもない夜会に参加する。それが小さな楽しみ。
ずっとオリアーヌ・メダンでいると肩がこる。いつも人に囲まれているせいだと思う。お父様やお兄様と近づきたい人、王族と縁を繋ぎたい人、次期公爵夫人となるオリアーヌと今から親しくなっておけば利があるかもしれないと考える人。
野心を隠してくれない人が多すぎて、社交界デビューしてから三年、社交が好きではなくなった。けれど、夜会の雰囲気やダンス、美味しい軽食は嫌いじゃない。
ある日、なんとなく仮面をつけてこっそり参加した夜会で気づいたのだ。この仮面をつけているときのほうが楽しいと。
気づけば、オリアーヌ・メダンとして参加する頻度よりもソフィアとして夜会に参加する頻度のほうが増えてしまった。
それにしても今日はお洒落な人が多い気がする。中規模な夜会は下位の貴族が多く集まるから、もう少し地味になることが多いんだけど。あまり考えても仕方ないわね。とりあえず、腹越しらしなくちゃ。今日のお茶会は王妃様の話がつきなくて、ケーキを食べ損ねてしまったのだ。
「お嬢さん、よろしければ一曲いかがですか?」
美味しそうな軽食を物色しようとしていたのに、見知らぬ男に声をかけられてしまった。食べてばかりでは太ってしまうし、ちょうどいいかしら。
「喜んで」
笑顔で答えた。
振り回されるようなダンス。ハインツみたいに優雅で優しいエスコートとは違う。けれど、小さいころお父様に振り回してもらう遊びに似ていて悪くない。
目が回りそうなのが欠点だ。
「見ない顔だね」
「田舎から出て来ているから、あまり社交場には通っていないの」
「さっき一人で入ってくるのを見かけたけど、一人で来たの?」
「ええ、おかしい?」
「いや、こっちでは家族とかフィアンセがエスコートするからさ」
「そう、田舎では一人で参加するのも普通なの」
知らないけど。
堂々と言えば、男は納得顔で頷いた。
「もしかして、君もこの国の二大貴公子を拝みに来たとか?」
「え?」
二大貴公子? 首を傾げる。二大貴公子といえば、言わずもがな。王太子のヴィンセントと公爵家の長男であるハインツなのだが。
「二人がこんなところに来るわけないわ」
オリアーヌをよく知る人が来るかどうかは全部調査済みなんだから。ハインツは夜会に無関心。王宮で行うような絶対に行かなくちゃいけないような夜会以外は全部招待状をゴミ箱に捨てるほどだ。
ヴィンセントは妹のジュエラに調べてもらったけど、今日は出かける予定はないと言っていた。
「普通ならね。けど、今日の主催者は二人の学院時代の同級で仲がよかったらしい。誕生日にサプライズのために呼ばれたんだ」
「……サプライズなのにやけに詳しいじゃない?」
「まあ、そりゃあ呼んだのは俺の兄貴だからね」
男は自慢げに笑って見せた。
荒いダンスはもう終盤。私はよろけてしまった。衝撃の情報に目が回ったのか、ダンスに目が回ったのかよく分からない。
間一髪で男が抱き留めてくれたけど、お礼を言う間もなく会場がざわめいた。
「きゃーっ! 本当にいらしたわ! 王太子殿下とハインツ様!」
「噂は本当だったのね! 今日来て正解~」
「やだっ! 今、目が合ったわ~!」
黄色い声が飛び交う。
……悪夢だわ。さほど大きくない会場でヴィンセントとハインツが一緒にいるなんて! まるであたしは二匹の狼の中が入っている折の中に入れられた子ウサギ。
夢なら冷めて……。願いながら人の隙間からのぞき見ると、見慣れた男が二人、闊歩していた。
久しぶりに見る婚約者のハインツは相変わらず整った顔をしている。有名な彫刻家が彫ったと言われても頷いてしまうくらい芸術的な顔立ちなのよ。蜂蜜を溶かして作ったような艶のある金髪といい、空のように澄んだ青い瞳といい。もう完璧。白い羽が生えていないのがおかしいと思う。私の目には大きな羽が見える。
隣にいるヴィンセントは割愛。口さえ開かなければハインツと並んでもひけを取らないどころか、お互いを引き立てあっているようなのだ。が、私には彼の背中には黒い羽が見える。悪魔にしか見えない。
ヴィンセントはいいとして、婚約者であるハインツには挨拶がしたいという気持ちは大いにある。……が、バレたら仮面は没収。バレたらもう遊べない……! バレたら、絶対ヴィンセントに生涯ネタにされる!
思わず一人で頭を抱えた。
「大丈夫? そんなに二人の貴公子が気になるなら、兄貴に頼んで紹介してもらおうか?」
男はあたしの顔を覗き込む。君のことなんてすっかり忘れていたわ。紹介は絶対駄目だ。
「ごめんなさい。ええと、用事を思い出したの」
にこやかに挨拶をしたあとはそそくさと会場の隅へと逃げた。
問題は、この会場がさほど大きくはないということ。そして、馬車は約束の時間まで迎えに来ないということだ。
「さすがに外で待つには寒すぎるのよね」
誰も手をつけていない軽食を口に放り込む。こんなときでも腹ごしらえは大切よ。二匹の狼との戦が始まるんですもの。
「具合の悪いふりをしてどこか部屋を借りるとか? でも大事になったら二人に気づかれそう」
ついつい独り言がはかどってしまう。悪い癖だ。
もっと穏便に隠れないと。あ、このエビの料理美味しい。ここのシェフは腕がいいわ。
「いっそのこと楽しんじゃう?」
目立たなければ大丈夫。だって、二人の周りには今も人だかりができている。そして、今のあたしはどこにでもいるその他大勢と変わらない。
二大貴公子なんて呼ばれる彼らが近づいてこないその他大勢に気を取られるだろうか?
人の集合体からうまく離れればいいわけで。目立つような行いさえしなければ……。
「うん、いける」
小さな独り言を呟きながら、大いに頷いた。