魔女見習いと影の獣
前のめりな姿勢で待機していたリアは、その問いにきょとんとしてしまった。
しかしそれも束の間のこと、勢いよく自分の手首を見ては後ずさる。
──しまった!
今朝、寝起きが悪くて香水をつけたことを忘れていた。恥ずかしいからエドウィンの前ではあまり付けないようにしようと密かに決めていたのに、またもや彼に気付かれてしまうとは。
どう言い訳をしようか考えていると、リアの沈黙を不穏なものとして捉えたエドウィンが笑顔で間合いを詰める。
「どなたかの贈り物でしょうか?」
「えっ」
「例えばそうですね、幼馴染のアハト殿とか」
「ええ? あいつに何か買ってもらったこと自体ないけど……じゃなくて、これはその、自分で買ったのよ」
器用にも後ろ歩きでエドウィンから逃げていたリアは、とうとう逃げ場がなくなったところで観念することにした。
少しひんやりとした空気が入り込むテラスの前で、彼女はぼそぼそと香水を買った経緯を語る。
「イネスと一緒に香水を買いに行ったのよ。そしたら店主の人からどんな香りが好きかって聞かれて、ぱっと思い浮かんだのが、ええと、エドウィンの匂いで」
「……」
「たまにあなたの手紙からも柑橘系の香りがしててね、落ち着く匂いだなって……でもいざエドウィンに同じような香水つけてること知られたら、気持ち悪がられるかなぁ……なんて」
「……。だから初めて尋ねたとき、不自然に話を逸らしたんですか」
「そうです」
それもバレてたのかと思いつつ素直に肯定すると、唐突にエドウィンがその場に屈んでしまった。
「え、何!? エドウィン!? 具合悪い!?」
「いえすみません、体調はすこぶる良いです」
「その体勢で!? 何か吐きそうになってない!?」
「ちょっとお見せできない顔なので」
「そんなはずないじゃない」
思わず真剣な声で告げてから、リアは彼の腕を両手でぐっと引き上げる。エドウィンはそれに従いながらも、未だ口元を覆い隠したまま取り繕うように笑みをこぼした。
おもむろに懐から取り出したのは、彼が普段から愛用しているであろう四角い香水瓶。中に入っている液体は、やはりリアのものと同じような色を帯びていた。
「香水は……僕が戦場にいる頃、あまりに顔色が悪いからと上官から渡されたんです。気を鎮めるには丁度良いから」
「あ……そうだったのね」
「ええ、それ以降ずるずると付けていて。気付けば常備するのが当たり前になっていましたね」
その上官が渡してくれた香水は、彼の妻が愛用していたものだったらしい。当時まだ十代だったエドウィンの体調を慮り、気休めになればと与えてくれたのだ。
戦場では厳しい面が目立つ人だったが、彼が上官でなければ初陣で心を病んでいただろうとエドウィンは語る。そうして苦笑混じりに瓶を仕舞いこんでは、リアの右手首を掬い上げた。
「だからこの香りが最も落ち着くのですが、リアも気に入ってくれていたとは知りませんでした」
「……き、気持ち悪くない? お前そんなに匂い嗅いでたのかよって」
「まさか。嬉しいですよ」
「何で?」
「僕と同じものを好んでくれたから」
さらりと返ってきた答えにリアは目を瞬かせ、やがて無意識のうちに彼の手を握り返す。
「エドウィンって」
「はい?」
「本っ当に私に甘いわね……? 大丈夫? 色気と優しさの安売りは危険よ」
「い、色気はよく分かりませんが……リアは無性に甘やかしたくなります」
「はぁ!! ほらそういうところ! そのうち私のこと餌付けでも始めそうね!?」
「ああ、それ良いですね」
「真面目に検討しないでくれる!?」
ただでさえ美味しいごはんには弱いと言うのに。リアは的外れな危機感に駆られてエドウィンの傍から逃げたが、考え込む仕草を止めた彼はやはりおかしげに笑うだけだ。
そのうち彼の穏やかな笑みに釣られて、リアもあっけなく破顔する。
「ありがとう、エドウィン」
「え?」
「ううん、何でもない。──あっ、あれサディアス様じゃない? 行ってみましょ!」
リアはエドウィンの手を引いて、暇そうにしている皇太子の元へと向かったのだった。
すっかり消え失せたはずの悪夢の余韻が、未だその影に潜んでいることには気付かずに。
しかしそれも束の間のこと、勢いよく自分の手首を見ては後ずさる。
──しまった!
今朝、寝起きが悪くて香水をつけたことを忘れていた。恥ずかしいからエドウィンの前ではあまり付けないようにしようと密かに決めていたのに、またもや彼に気付かれてしまうとは。
どう言い訳をしようか考えていると、リアの沈黙を不穏なものとして捉えたエドウィンが笑顔で間合いを詰める。
「どなたかの贈り物でしょうか?」
「えっ」
「例えばそうですね、幼馴染のアハト殿とか」
「ええ? あいつに何か買ってもらったこと自体ないけど……じゃなくて、これはその、自分で買ったのよ」
器用にも後ろ歩きでエドウィンから逃げていたリアは、とうとう逃げ場がなくなったところで観念することにした。
少しひんやりとした空気が入り込むテラスの前で、彼女はぼそぼそと香水を買った経緯を語る。
「イネスと一緒に香水を買いに行ったのよ。そしたら店主の人からどんな香りが好きかって聞かれて、ぱっと思い浮かんだのが、ええと、エドウィンの匂いで」
「……」
「たまにあなたの手紙からも柑橘系の香りがしててね、落ち着く匂いだなって……でもいざエドウィンに同じような香水つけてること知られたら、気持ち悪がられるかなぁ……なんて」
「……。だから初めて尋ねたとき、不自然に話を逸らしたんですか」
「そうです」
それもバレてたのかと思いつつ素直に肯定すると、唐突にエドウィンがその場に屈んでしまった。
「え、何!? エドウィン!? 具合悪い!?」
「いえすみません、体調はすこぶる良いです」
「その体勢で!? 何か吐きそうになってない!?」
「ちょっとお見せできない顔なので」
「そんなはずないじゃない」
思わず真剣な声で告げてから、リアは彼の腕を両手でぐっと引き上げる。エドウィンはそれに従いながらも、未だ口元を覆い隠したまま取り繕うように笑みをこぼした。
おもむろに懐から取り出したのは、彼が普段から愛用しているであろう四角い香水瓶。中に入っている液体は、やはりリアのものと同じような色を帯びていた。
「香水は……僕が戦場にいる頃、あまりに顔色が悪いからと上官から渡されたんです。気を鎮めるには丁度良いから」
「あ……そうだったのね」
「ええ、それ以降ずるずると付けていて。気付けば常備するのが当たり前になっていましたね」
その上官が渡してくれた香水は、彼の妻が愛用していたものだったらしい。当時まだ十代だったエドウィンの体調を慮り、気休めになればと与えてくれたのだ。
戦場では厳しい面が目立つ人だったが、彼が上官でなければ初陣で心を病んでいただろうとエドウィンは語る。そうして苦笑混じりに瓶を仕舞いこんでは、リアの右手首を掬い上げた。
「だからこの香りが最も落ち着くのですが、リアも気に入ってくれていたとは知りませんでした」
「……き、気持ち悪くない? お前そんなに匂い嗅いでたのかよって」
「まさか。嬉しいですよ」
「何で?」
「僕と同じものを好んでくれたから」
さらりと返ってきた答えにリアは目を瞬かせ、やがて無意識のうちに彼の手を握り返す。
「エドウィンって」
「はい?」
「本っ当に私に甘いわね……? 大丈夫? 色気と優しさの安売りは危険よ」
「い、色気はよく分かりませんが……リアは無性に甘やかしたくなります」
「はぁ!! ほらそういうところ! そのうち私のこと餌付けでも始めそうね!?」
「ああ、それ良いですね」
「真面目に検討しないでくれる!?」
ただでさえ美味しいごはんには弱いと言うのに。リアは的外れな危機感に駆られてエドウィンの傍から逃げたが、考え込む仕草を止めた彼はやはりおかしげに笑うだけだ。
そのうち彼の穏やかな笑みに釣られて、リアもあっけなく破顔する。
「ありがとう、エドウィン」
「え?」
「ううん、何でもない。──あっ、あれサディアス様じゃない? 行ってみましょ!」
リアはエドウィンの手を引いて、暇そうにしている皇太子の元へと向かったのだった。
すっかり消え失せたはずの悪夢の余韻が、未だその影に潜んでいることには気付かずに。