魔女見習いと影の獣
月光のみに照らされた青き雪原。アイヤラの篝火など必要ないとばかりに淡く光る雪は、唐突に現れた訪問者によって足跡を刻まれていく。
樹氷の奥にひっそりと佇む一件の民家を睨み、イヴァンは深い溜息をついた。重い気分を持て余したまま、再び歩を進めては耳障りな声に顔を顰める。
──私は信頼してる人が胡散臭い奴と仲良くしてる方が不安よ!
引き返せ、正気になれと叫ぶ。今日まで顔も知らなかった娘が、生意気にも声を張り上げている。
こみ上げた苛立ちを晴らすべく、進路に垂れた枝を踏み折った。歩幅を大きくして民家の階段を上った彼は、扉に手を掛けたところで逡巡する。
しかしそれも僅かな間のこと。舌打ちまじりに扉を押し開いた。
「ダグラス。いるか」
乱暴な所作で戸を閉めた彼は、真っ暗な屋内を見渡す。落ち合い場所として指定されたためてっきり空き家かと思ったが、そこかしこに暮らしの跡が見受けられた。
否、それは少し違う。古びたテーブル、火を灯すためのカンテラ、からっぽの花瓶。これは奴が勝手に持ち込んで飾った物だろう。
つくづく訳の分からない男だと、イヴァンはどこにも腰を下ろさずに言葉を続けた。
「……予定外の邪魔が入った。あの黒い獣……もしや貴様が言っていたバザロフの死霊ではないのか」
光華の塔で乱入した漆黒の影獣──エドウィン・アストリーが見せた異形の力。
あの場では咄嗟に思い出せなかったが、あれはキーシンの文献に記されていた死霊の特徴と一致する。キツネのような、ウサギのような、ネコのような、四足で影と影の合間を駆け回る獣。女神ジスの眷属であると同時に、人々にも害を為す謎の存在として彼らは語り継がれる。
それが何故──銀騎士は死霊に取り憑かれているのだろうか。
まさか北部戦線から急に離脱した理由がそれだったのだろうかと、イヴァンは不気味な影獣の姿を思い浮かべてはかぶりを振る。
「とにかく、銀騎士には弑神の霊木が通用せん。愛し子を奪おうってんなら、別の策を講じなければならんぞ」
どこかで床を打つ音が聞こえた。
ついで木材が軋み、部屋の奥で黒い人影がのそりと立ち上がる。
「獅子は死んだか」
「……?」
「次の段階へ行けそうだ。礼を言おうか、イヴァン王子。近く、貴殿の悲願も達成されるだろうね」
友好的な口調で人影は言う。何度言葉を交わしても、この男の腹は読めない。相手の心を撫でつけるような穏やかさと、同時に心臓を握り潰すような威圧感が混ざる。
エルヴァスティが永久追放したというのも大いに頷ける話ではあるが、ただの罪人として片づけるには些かその枠に収まらない。
例えるならば、そう。
──善悪など超越した先、己の望みを叶えるためだけに生きる化物。
人の形をして、人の言葉が通じるのに、人と話している心地がしないのは初めてだった。
「貴殿は民を率いる立場にしては、少し肝が小さいな。私ごときと話すだけで、どうしてそこまで怯えているんだい?」
「黙れ。罪人に説教などされたくはない」
「おやおや。随分な言い方だ」
大して傷付いた様子もなく笑い、男が窓際へと近付く。
青白い斜光の下に、指輪を嵌めた手がふと現れる。その下、軽く握った杖が静かに床を打った。
「ヘルガ。君とまたお茶がしたいな」
まるで愛しい娘に恋焦がれるかのように、男は譫言をこぼして笑う。
夢見心地な声音とは裏腹に、杖を握る手は震えていた。そこに宿るは喜びか怒りか、憎しみか。
イヴァンには到底分からないし、分かりたくもなかった。
樹氷の奥にひっそりと佇む一件の民家を睨み、イヴァンは深い溜息をついた。重い気分を持て余したまま、再び歩を進めては耳障りな声に顔を顰める。
──私は信頼してる人が胡散臭い奴と仲良くしてる方が不安よ!
引き返せ、正気になれと叫ぶ。今日まで顔も知らなかった娘が、生意気にも声を張り上げている。
こみ上げた苛立ちを晴らすべく、進路に垂れた枝を踏み折った。歩幅を大きくして民家の階段を上った彼は、扉に手を掛けたところで逡巡する。
しかしそれも僅かな間のこと。舌打ちまじりに扉を押し開いた。
「ダグラス。いるか」
乱暴な所作で戸を閉めた彼は、真っ暗な屋内を見渡す。落ち合い場所として指定されたためてっきり空き家かと思ったが、そこかしこに暮らしの跡が見受けられた。
否、それは少し違う。古びたテーブル、火を灯すためのカンテラ、からっぽの花瓶。これは奴が勝手に持ち込んで飾った物だろう。
つくづく訳の分からない男だと、イヴァンはどこにも腰を下ろさずに言葉を続けた。
「……予定外の邪魔が入った。あの黒い獣……もしや貴様が言っていたバザロフの死霊ではないのか」
光華の塔で乱入した漆黒の影獣──エドウィン・アストリーが見せた異形の力。
あの場では咄嗟に思い出せなかったが、あれはキーシンの文献に記されていた死霊の特徴と一致する。キツネのような、ウサギのような、ネコのような、四足で影と影の合間を駆け回る獣。女神ジスの眷属であると同時に、人々にも害を為す謎の存在として彼らは語り継がれる。
それが何故──銀騎士は死霊に取り憑かれているのだろうか。
まさか北部戦線から急に離脱した理由がそれだったのだろうかと、イヴァンは不気味な影獣の姿を思い浮かべてはかぶりを振る。
「とにかく、銀騎士には弑神の霊木が通用せん。愛し子を奪おうってんなら、別の策を講じなければならんぞ」
どこかで床を打つ音が聞こえた。
ついで木材が軋み、部屋の奥で黒い人影がのそりと立ち上がる。
「獅子は死んだか」
「……?」
「次の段階へ行けそうだ。礼を言おうか、イヴァン王子。近く、貴殿の悲願も達成されるだろうね」
友好的な口調で人影は言う。何度言葉を交わしても、この男の腹は読めない。相手の心を撫でつけるような穏やかさと、同時に心臓を握り潰すような威圧感が混ざる。
エルヴァスティが永久追放したというのも大いに頷ける話ではあるが、ただの罪人として片づけるには些かその枠に収まらない。
例えるならば、そう。
──善悪など超越した先、己の望みを叶えるためだけに生きる化物。
人の形をして、人の言葉が通じるのに、人と話している心地がしないのは初めてだった。
「貴殿は民を率いる立場にしては、少し肝が小さいな。私ごときと話すだけで、どうしてそこまで怯えているんだい?」
「黙れ。罪人に説教などされたくはない」
「おやおや。随分な言い方だ」
大して傷付いた様子もなく笑い、男が窓際へと近付く。
青白い斜光の下に、指輪を嵌めた手がふと現れる。その下、軽く握った杖が静かに床を打った。
「ヘルガ。君とまたお茶がしたいな」
まるで愛しい娘に恋焦がれるかのように、男は譫言をこぼして笑う。
夢見心地な声音とは裏腹に、杖を握る手は震えていた。そこに宿るは喜びか怒りか、憎しみか。
イヴァンには到底分からないし、分かりたくもなかった。