魔女見習いと影の獣
 グレンダから軽いおもてなしを受けた後、リアは伯爵邸の書斎へ案内してもらった。
 薬の調合をしてもよい場所はないかと尋ねたところ、先代伯爵が床に臥して以降、誰も使っていない小部屋があると提案されたのだ。
 リアはグレンダが退室してから暫くその場に立ち尽くし、唖然とした面持ちで呟く。

「これが書斎……?」

 整理整頓された書架、何も落ちていない床、真っ直ぐな机、安定感のある椅子。
 快適だ。快適すぎる。
 師匠が頻繁に籠もっていた書斎は汚部屋と呼ぶに相応しく、足の踏み場もなかったはず。リアは決して綺麗好きを豪語できるような性格でもないが、本の隙間からネズミが出たときはさすがに師匠を非難したものだ。
 本を保護するための硝子戸にも、埃一つない。きっとグレンダや使用人が毎日欠かさず拭き掃除をしているのだろう。

「この上から更に布でも掛けた方が良さそうね……」

 机に調合用の器具を置きつつ、リアはちょこんと椅子に腰かけてみる。素晴らしい座り心地だ。
 ここで暮らしたい、と寝台すら無いのに本気で思ってしまうほどには、ホッとする空間だった。
 するとその時、扉が控えめにノックされる。

「リア、ここにいたのですね」
「お邪魔してます」

 顔を覗かせたエドウィンは笑顔を浮かべたものの、リアの姿を見ては不思議そうに目を瞬かせた。

「なに? エドウィン」
「いえ、そちらの椅子を使ったのかと」
「?」

 どういう意味かと思って後ろを振り返ると、そこに濃緑のビロードが張られた豪華な椅子が置いてある。暫しその椅子を見詰めたリアは、錆びついた動きでエドウィンを見遣った。

「あ、あれは平民が座ってはいけない椅子では?」
「そんなことありませんよ」

 可笑しげに笑ったエドウィンは、こぢんまりとした書斎をゆっくりと見渡しては、懐かしむような声で告げる。

「その小さな椅子は……僕が幼い頃に使っていたものでして」
「そうなの? じゃあそっちの椅子は」
「父が読書用に」
「座っちゃ駄目じゃない」
「気にせず使ってください」
「エドウィンが座ったら良いわ、ほら」

 師匠から「骨董品クラッシャー」とまで言われたリアが、そんな大事な椅子に座るわけにはいかない。エドウィンの腕を引き、ひょいと奥の椅子に座らせてしまえば、あまりの納まりの良さにリアはしみじみと頷いてしまった。

「絵になるわね……」
「……そうでしょうか」

 ──あ、照れた。
 口を手で隠すのは癖だろうか。少しばかり赤くなった耳を一瞥し、リアはくすくすと肩を揺らす。

「そうだ。体は何ともないの? 伯爵邸に来るまで、呪いは発動しなかったけど……」

 ここにはちょうど二人しかいないのだし、と彼女は話を切り出した。懐から手帳を取り出しては、数日間の日付が記されたページを開く。
 エドウィンの呪いが最後に発動したのは今から一週間ほど前。自治都市の外れにある森で、リアが薬草を採取していた日の夜だ。
 あれ以降エドウィンは獣の姿になっていないが、呪いが解けたと判断するには時期尚早である。

「今は特に何も……今朝、少し眩暈がしたぐらいです」
「呪いの前兆みたいな?」
「はい。軽いものでしたが」

 やはり注視すべきは、この眩暈だろうか。
 初めて呪いが発動したときも、強い眩暈と動悸がして、エドウィンは意識を失いかけたという。彼が言うには、その眩暈と共に視界が徐々に黒く塗り潰され、完全に暗転すると獣になってしまう、と。

「じゃあ……人間に戻るときはどんな感じなの? やっぱり眩暈がする?」

 エドウィンは記憶を遡るように瞳を伏せると、ゆるくかぶりを振った。

「……いや、戻るときはすぐです。急に呼吸がしやすくなって、意識もはっきりして……気付いたら人の姿で倒れています」
「ええっ危ないわ、下手したら気絶してる間に山賊にでも攫われちゃう」
「それはないかと」

 手帳に書き留めながらの言葉を軽口として捉えたのか、エドウィンが苦笑する。
 ──そんな綺麗な顔で眠ってたら、女性と間違われても不思議じゃないのに。
 リアは唇を尖らせつつ、手帳の隅に「美貌の自覚症状なし」と無意味なメモを残しておいた。
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