魔女見習いと影の獣
白き柄に絡む二頭の蛇。羽飾りを据えたその杖を、人はモーセルの杖と呼び崇めた。
遥か昔、土も水もなかった時代。混沌から生まれたうねりの中、一対の光と暗黒が長きに渡って合争った。神聖時代という輝かしき名とは裏腹に、それはまさに天地の覇権を巡った戦いの時代であった。
当時の争いを見届けた原人は言う。
彼らこそが神であり、全ての世界を運命づけた奇跡であると。
「──気が遠くなるほどの長い戦の末、勝利をおさめたのは光の神だった」
ダグラスはこつこつと杖で床を叩きながら、吟遊詩人も知らぬような話を口ずさむ。様子を窺うように飛んで来た光の胞子を、彼は指先でおざなりにあやした。
「暗黒は神としての資格を奪われ、暗い暗い地底へと閉じ込められた。それだけでは飽き足らず、光の使徒モーセルは自らを犠牲にしてまでバザロフに封印を施し、やがて消滅してしまった……。どうやらあの遺跡は、地底の入り口の一つに過ぎないらしいね。どうだろうオーレリア、キーシンの御伽噺も侮れないと思わないかい」
「ど……っどうでもいいからコレ引っ込めなさいよ!」
のんびりと尋ねられたリアは、ついつい大声で抗議してしまった。
しかしそれも無理はなかった。リアと護衛騎士は今現在、階段に叩き伏せられたのち、手足を影によって拘束されている。ダグラスがモーセルの杖を軽く振るうだけで、影の精霊はいとも容易く彼の言うことを聞き入れ、逃げる暇も与えずに二人の自由を奪ったのだ。
これでは精霊術を使えないではないかと、リアは焦りを露わにしたままダグラスを睨み上げる。無論、濃緑の瞳はその抵抗を子猫の威嚇ぐらいにしか思っていないらしく、あっさりと受け流した。
「そう怖い顔をしないでくれ。可愛らしい顔が台無しだ」
「うるさい! 一人でのこのこ皇宮まで乗り込んできて馬鹿じゃないのっ? すぐに騎士団が気付くわよ!」
「ん? それはどうかな。今頃、勇敢で愚かなキーシンの戦士たちが足止めをしてくれているよ」
「あっ」
帝都でキーシンの残党が目撃されて──先程エドウィンから聞いた話が頭を過り、リアは分かりやすく歯噛みしてしまう。
だが皇宮にいるのは騎士団だけではない。リアの師匠ヨアキムと大巫女ユスティーナ、老練の精霊術師が近くにいるのだ。影の精霊の気配を察知してくれたのなら、或いは。
ならば時間稼ぎぐらいはしなければと、傍らに倒れている影獣を一瞥する。
「人の姿に戻してあげてよ。彼は関係ないじゃない」
「悪いね。私は精霊術にそれほど詳しい身でもないんだ。影の子らの悪戯には対処できない」
「う、嘘つき! さっき風の精霊呼んでたくせに!」
「オーレリア様っ、どうか冷静に……!」
隣に伏せている騎士から緊張感たっぷりに制止されながらも、リアはじたばたとその場で暴れて訴える。
二人が芋虫よろしく脱出を試みる様を眺めていたダグラスは、くつくつと肩を揺らしながら階段に腰掛けた。
「いやいや、すまない。精霊術に詳しくないのは本当さ。……私はその一部を、人から口頭で教えてもらっただけだからね」
「人から……? ……あなた、エルヴァスティの精霊術師じゃなかったの?」
「ああ。私はここの出身さ」
クルサード人の精霊術師。エルヴァスティ人以外の人間が精霊術を扱うこと自体、特に禁じられているわけではないが──珍しい存在であることには違いない。
怪訝な表情を浮かべたリアは、ふと湧いた疑問をそのままダグラスへとぶつけた。
「クルサード人のあなたが……どうしてエルヴァスティの大罪人と呼ばれているの?」
「何も聞いていないか。君の偉大な師匠からは」
モーセルの杖で顎を掬われ、視線を絡め取られる。
揺れる眼球を、喉の奥から心臓をも抜き取られそうな不快な感覚に陥り、リアは浅い呼吸を繰り返した。
「……聞いてない」
「そうか。私の存在は一切、君の意識にさえ入れなかったということか。見事な徹底ぶりだな」
至極残念そうに肩を竦めたダグラスは、リアの顎を捉えていた杖をくるりと上下反転させる。眼前に映し出された二頭の蛇にぎょっと目を剥けば、その反応を見咎めた彼が不敵に嗤った。
「久しぶり、と言っただろう。──私と君が会うのは、これで三度目だよ」
心当たりのないリアは否定の言葉を返そうとして、思い止まる。
記憶にあるのはエルヴァスティの歓楽街で、右足の不自由な紳士を助けたこと。それだけのはずなのに──何故だかダグラスを赤の他人と思えない自分がいる。
しかし一体いつ会ったというのか? ブロンドの髪に濃緑の瞳、一度見たら忘れない悠然とした佇まい。いくら記憶を遡っても、彼の姿は出てこなかった。
──否。
「……蛇……」
鼻先に突き付けられた、モーセルの杖。そこに絡みつく蛇を模した装飾に、リアは目を奪われる。
彼女の身体が急激に冷え、鈍っていた本能が大きく警鐘を鳴らしたときだった。
「──ダグラス!!」
薄闇に落ちたエントランスに、馴染み深い声が飛んで来た。
遥か昔、土も水もなかった時代。混沌から生まれたうねりの中、一対の光と暗黒が長きに渡って合争った。神聖時代という輝かしき名とは裏腹に、それはまさに天地の覇権を巡った戦いの時代であった。
当時の争いを見届けた原人は言う。
彼らこそが神であり、全ての世界を運命づけた奇跡であると。
「──気が遠くなるほどの長い戦の末、勝利をおさめたのは光の神だった」
ダグラスはこつこつと杖で床を叩きながら、吟遊詩人も知らぬような話を口ずさむ。様子を窺うように飛んで来た光の胞子を、彼は指先でおざなりにあやした。
「暗黒は神としての資格を奪われ、暗い暗い地底へと閉じ込められた。それだけでは飽き足らず、光の使徒モーセルは自らを犠牲にしてまでバザロフに封印を施し、やがて消滅してしまった……。どうやらあの遺跡は、地底の入り口の一つに過ぎないらしいね。どうだろうオーレリア、キーシンの御伽噺も侮れないと思わないかい」
「ど……っどうでもいいからコレ引っ込めなさいよ!」
のんびりと尋ねられたリアは、ついつい大声で抗議してしまった。
しかしそれも無理はなかった。リアと護衛騎士は今現在、階段に叩き伏せられたのち、手足を影によって拘束されている。ダグラスがモーセルの杖を軽く振るうだけで、影の精霊はいとも容易く彼の言うことを聞き入れ、逃げる暇も与えずに二人の自由を奪ったのだ。
これでは精霊術を使えないではないかと、リアは焦りを露わにしたままダグラスを睨み上げる。無論、濃緑の瞳はその抵抗を子猫の威嚇ぐらいにしか思っていないらしく、あっさりと受け流した。
「そう怖い顔をしないでくれ。可愛らしい顔が台無しだ」
「うるさい! 一人でのこのこ皇宮まで乗り込んできて馬鹿じゃないのっ? すぐに騎士団が気付くわよ!」
「ん? それはどうかな。今頃、勇敢で愚かなキーシンの戦士たちが足止めをしてくれているよ」
「あっ」
帝都でキーシンの残党が目撃されて──先程エドウィンから聞いた話が頭を過り、リアは分かりやすく歯噛みしてしまう。
だが皇宮にいるのは騎士団だけではない。リアの師匠ヨアキムと大巫女ユスティーナ、老練の精霊術師が近くにいるのだ。影の精霊の気配を察知してくれたのなら、或いは。
ならば時間稼ぎぐらいはしなければと、傍らに倒れている影獣を一瞥する。
「人の姿に戻してあげてよ。彼は関係ないじゃない」
「悪いね。私は精霊術にそれほど詳しい身でもないんだ。影の子らの悪戯には対処できない」
「う、嘘つき! さっき風の精霊呼んでたくせに!」
「オーレリア様っ、どうか冷静に……!」
隣に伏せている騎士から緊張感たっぷりに制止されながらも、リアはじたばたとその場で暴れて訴える。
二人が芋虫よろしく脱出を試みる様を眺めていたダグラスは、くつくつと肩を揺らしながら階段に腰掛けた。
「いやいや、すまない。精霊術に詳しくないのは本当さ。……私はその一部を、人から口頭で教えてもらっただけだからね」
「人から……? ……あなた、エルヴァスティの精霊術師じゃなかったの?」
「ああ。私はここの出身さ」
クルサード人の精霊術師。エルヴァスティ人以外の人間が精霊術を扱うこと自体、特に禁じられているわけではないが──珍しい存在であることには違いない。
怪訝な表情を浮かべたリアは、ふと湧いた疑問をそのままダグラスへとぶつけた。
「クルサード人のあなたが……どうしてエルヴァスティの大罪人と呼ばれているの?」
「何も聞いていないか。君の偉大な師匠からは」
モーセルの杖で顎を掬われ、視線を絡め取られる。
揺れる眼球を、喉の奥から心臓をも抜き取られそうな不快な感覚に陥り、リアは浅い呼吸を繰り返した。
「……聞いてない」
「そうか。私の存在は一切、君の意識にさえ入れなかったということか。見事な徹底ぶりだな」
至極残念そうに肩を竦めたダグラスは、リアの顎を捉えていた杖をくるりと上下反転させる。眼前に映し出された二頭の蛇にぎょっと目を剥けば、その反応を見咎めた彼が不敵に嗤った。
「久しぶり、と言っただろう。──私と君が会うのは、これで三度目だよ」
心当たりのないリアは否定の言葉を返そうとして、思い止まる。
記憶にあるのはエルヴァスティの歓楽街で、右足の不自由な紳士を助けたこと。それだけのはずなのに──何故だかダグラスを赤の他人と思えない自分がいる。
しかし一体いつ会ったというのか? ブロンドの髪に濃緑の瞳、一度見たら忘れない悠然とした佇まい。いくら記憶を遡っても、彼の姿は出てこなかった。
──否。
「……蛇……」
鼻先に突き付けられた、モーセルの杖。そこに絡みつく蛇を模した装飾に、リアは目を奪われる。
彼女の身体が急激に冷え、鈍っていた本能が大きく警鐘を鳴らしたときだった。
「──ダグラス!!」
薄闇に落ちたエントランスに、馴染み深い声が飛んで来た。