魔女見習いと影の獣
この世に生まれたばかりの生命とは総じて、一切の穢れを知らぬものだ。
感情の喜怒哀楽も、そこから生じる欲も。種の本能のみで構成された小さな赤子は、精霊が最も好む存在だった。
そして精霊の愛し子が生まれ落ちる瞬間もまた、美しい花弁の端から滴る甘く清らな蜜と同じく、彼らにとって貴重で逃しがたいものだと言われている。
──この子を連れて行かないで。
しかしてそれを喜ぶ母親など滅多にいない。
況してや自らが長きに渡って精霊に脅かされ、隠れるように生きてきたのなら尚更。
精霊の愛し子である女が身代わりの取引をし、子を産むと同時に姿を消してしまう事例は非常に多かった。
もしかしたら自分の母親もそうだったのかもしれない。一度たりとも語られない母親の行方を考える間、捨てられたのではないかと勘繰ることを嫌い、苦渋の末に辿り着いた帰結がそれだった。
だが──その結末は傍から見れば、子が親を殺したことになるのだろうかと、リアは目の前にいる男の形相に疑問を抱く。
「大巫女もそう言っていたよ。ヘルガは腹の子を守るために、自ら精霊の贄になったのだと。もはやどうすることも出来ないと、誰も彼女を救おうとしなかった」
「……だって……それが精霊の愛し子よ。喰われた人間は連れ戻せないわ。例え大巫女様でもその事実は覆せない」
「仕方ないから諦めろと、エルヴァスティの民はみな口を揃えていたな。だが……愛する人を奪われても抗うな? 潔く死を受け入れろだと? さすが魔女の巣窟と呼ばれるだけある」
あの者たちはとうに狂っているのだ。
そう語る男の瞳は、もはや誰の声も届かぬほど虚ろだった。
──愛する人。
ようやくダグラスが何者なのか、どうしてリアに接触して来たのか、全ての理由が分かってしまった。
きっと彼は、失われた面影をリアの姿に重ねているのだろう。自分とそっくりな──死んでしまったヘルガという女性を。
最愛の妻の笑顔を。
雪深い故郷で一緒に紅茶を飲んだあの時も、今この瞬間も。
「……お母さんが死んでしまったから、娘の私を供物にして蘇らせるのね」
ダグラスは何も答えない。
リアを妻の仇と見なしていることは勿論、自分の娘であることも認めていないような目つきだった。
本当の父親にこれほど憎まれているなど、一度だって考えたことはなかったが……不思議なほど悲しみは湧いてこない。
代わりに膨らんだ感情が、ついにリアの喉元までせり上がって、冷たく吐き出された。
「──最低。お母さんが可哀想だわ」
精霊の愛し子にとって、誰かと共に生きることは生半可な覚悟で決められない。
いざその時が来れば自分の後悔が強くなるばかりか、残される相手まで悲しませてしまうから。
母はそれを承知の上で、ダグラスなら娘を大切に育ててくれると信じていただろうに。
そして彼も、愛し子の宿命に納得して夫婦になることを望んだだろうに。
今やダグラスは妻の信頼に背き、実の娘を手に掛けようとしている。その事実がひどく苦しく、同じ愛し子としてもどかしさを禁じ得なかった。
「私だっていつ消えるか分からない。分からないからこそ、大事な人のそばを離れたくないのよ。隣で笑っていたいし、私がいなくなった後も幸せでいてほしい。お母さんもきっと同じことで何度も悩んだはずだわ」
それと。リアは強く前置く。
絶望と憎悪に溺れ、狂いゆく男を正面から見据えて。
「私はオーレリア・ヴィレンよ。精霊ならまだしも、知らない男なんかに人生を邪魔されたくないの」
はっきりと告げれば、ダグラスの険しい瞳が微かに揺れる。
しかしそれも束の間のこと。彼は乾いた笑いを漏らし、リアを嘲るのだ。
「……そうかい。ありがたいことだ。見知らぬ生意気なお嬢さんなら、罪悪感など覚えなくて済むかもしれないね」
ダグラスが杖に手を伸ばすのと、リアがナイフを引き抜くのは同時だった。
樹冠の影がぐにゃりと蠢くのを見て、彼女はすぐさま日向へと後退しながら呪文を口にする。
「──凪に燃ゆる裁きの紅炎よ、猛る闇を祓いたまえ!」
三つ編みの先端を切り落とせば、青空から赤い光が舞い降りた。黒く濁った影が一直線にリアへ襲い掛かるも、対価を喰らった火の精霊が燃え盛る盾となる。
二つの精霊が激しくぶつかり合う傍ら、リアは菫色のリボンを解いて手首に巻きつけると、先程よりも多く毛束を切った。
「大地を巡る導きの翠風よ、唸る嵐となりて吹き荒れよ!」
刹那、後方から凄まじい鳴動と共に突風が迫り、リアの髪や服をはためかせる。風は轟々と燃える炎と合わさり、爆発にも似た火柱を形成して影を圧倒した。
リアは火の粉が舞う森の中、立ち昇る煙と炎を見上げつつ踵を返す。精霊術で人を傷付けてはならないという掟の下では、これぐらいの足止めが限界だ。今のうちに森を抜け、影の精霊が満足に動けない場所まで逃げなければ。
その後で、モーセルの杖を奪い返す算段をつけねばならないが──さすがに一人では無理がある。風の精霊で大巫女に連絡を取るか、それとも。
「あっ……」
いつもあるはずの感触が消えていることに気付き、走りながら左耳を探る。エドウィンから貰った耳飾りが、片方だけ無くなっていた。
たったそれだけで気持ちが萎んでしまったが、まだ一つ残っていることを喜ぼう。リアは右耳の大きな飾りに指先を押し当て、いつかと同じように呼び掛ける。
「石に眠りし守護精霊よ、勇敢なる銀影をここへ──!?」
紫水晶から光が溢れ出した直後、リアの体が大きく右に傾く。
足首に絡み付いた影と、道端でぱっくりと口を開ける漆黒の大穴。ダグラスの術だと悟るや否や、リアは親指の皮膚をナイフで切った。
「──エドウィンに会わせて!」
その声は、全てのしがらみに抗うように切実で。
愛し子の懇願を聞き届けた紫水晶は、閉じゆく闇を抜け、広い大空へと飛んだのだった。
感情の喜怒哀楽も、そこから生じる欲も。種の本能のみで構成された小さな赤子は、精霊が最も好む存在だった。
そして精霊の愛し子が生まれ落ちる瞬間もまた、美しい花弁の端から滴る甘く清らな蜜と同じく、彼らにとって貴重で逃しがたいものだと言われている。
──この子を連れて行かないで。
しかしてそれを喜ぶ母親など滅多にいない。
況してや自らが長きに渡って精霊に脅かされ、隠れるように生きてきたのなら尚更。
精霊の愛し子である女が身代わりの取引をし、子を産むと同時に姿を消してしまう事例は非常に多かった。
もしかしたら自分の母親もそうだったのかもしれない。一度たりとも語られない母親の行方を考える間、捨てられたのではないかと勘繰ることを嫌い、苦渋の末に辿り着いた帰結がそれだった。
だが──その結末は傍から見れば、子が親を殺したことになるのだろうかと、リアは目の前にいる男の形相に疑問を抱く。
「大巫女もそう言っていたよ。ヘルガは腹の子を守るために、自ら精霊の贄になったのだと。もはやどうすることも出来ないと、誰も彼女を救おうとしなかった」
「……だって……それが精霊の愛し子よ。喰われた人間は連れ戻せないわ。例え大巫女様でもその事実は覆せない」
「仕方ないから諦めろと、エルヴァスティの民はみな口を揃えていたな。だが……愛する人を奪われても抗うな? 潔く死を受け入れろだと? さすが魔女の巣窟と呼ばれるだけある」
あの者たちはとうに狂っているのだ。
そう語る男の瞳は、もはや誰の声も届かぬほど虚ろだった。
──愛する人。
ようやくダグラスが何者なのか、どうしてリアに接触して来たのか、全ての理由が分かってしまった。
きっと彼は、失われた面影をリアの姿に重ねているのだろう。自分とそっくりな──死んでしまったヘルガという女性を。
最愛の妻の笑顔を。
雪深い故郷で一緒に紅茶を飲んだあの時も、今この瞬間も。
「……お母さんが死んでしまったから、娘の私を供物にして蘇らせるのね」
ダグラスは何も答えない。
リアを妻の仇と見なしていることは勿論、自分の娘であることも認めていないような目つきだった。
本当の父親にこれほど憎まれているなど、一度だって考えたことはなかったが……不思議なほど悲しみは湧いてこない。
代わりに膨らんだ感情が、ついにリアの喉元までせり上がって、冷たく吐き出された。
「──最低。お母さんが可哀想だわ」
精霊の愛し子にとって、誰かと共に生きることは生半可な覚悟で決められない。
いざその時が来れば自分の後悔が強くなるばかりか、残される相手まで悲しませてしまうから。
母はそれを承知の上で、ダグラスなら娘を大切に育ててくれると信じていただろうに。
そして彼も、愛し子の宿命に納得して夫婦になることを望んだだろうに。
今やダグラスは妻の信頼に背き、実の娘を手に掛けようとしている。その事実がひどく苦しく、同じ愛し子としてもどかしさを禁じ得なかった。
「私だっていつ消えるか分からない。分からないからこそ、大事な人のそばを離れたくないのよ。隣で笑っていたいし、私がいなくなった後も幸せでいてほしい。お母さんもきっと同じことで何度も悩んだはずだわ」
それと。リアは強く前置く。
絶望と憎悪に溺れ、狂いゆく男を正面から見据えて。
「私はオーレリア・ヴィレンよ。精霊ならまだしも、知らない男なんかに人生を邪魔されたくないの」
はっきりと告げれば、ダグラスの険しい瞳が微かに揺れる。
しかしそれも束の間のこと。彼は乾いた笑いを漏らし、リアを嘲るのだ。
「……そうかい。ありがたいことだ。見知らぬ生意気なお嬢さんなら、罪悪感など覚えなくて済むかもしれないね」
ダグラスが杖に手を伸ばすのと、リアがナイフを引き抜くのは同時だった。
樹冠の影がぐにゃりと蠢くのを見て、彼女はすぐさま日向へと後退しながら呪文を口にする。
「──凪に燃ゆる裁きの紅炎よ、猛る闇を祓いたまえ!」
三つ編みの先端を切り落とせば、青空から赤い光が舞い降りた。黒く濁った影が一直線にリアへ襲い掛かるも、対価を喰らった火の精霊が燃え盛る盾となる。
二つの精霊が激しくぶつかり合う傍ら、リアは菫色のリボンを解いて手首に巻きつけると、先程よりも多く毛束を切った。
「大地を巡る導きの翠風よ、唸る嵐となりて吹き荒れよ!」
刹那、後方から凄まじい鳴動と共に突風が迫り、リアの髪や服をはためかせる。風は轟々と燃える炎と合わさり、爆発にも似た火柱を形成して影を圧倒した。
リアは火の粉が舞う森の中、立ち昇る煙と炎を見上げつつ踵を返す。精霊術で人を傷付けてはならないという掟の下では、これぐらいの足止めが限界だ。今のうちに森を抜け、影の精霊が満足に動けない場所まで逃げなければ。
その後で、モーセルの杖を奪い返す算段をつけねばならないが──さすがに一人では無理がある。風の精霊で大巫女に連絡を取るか、それとも。
「あっ……」
いつもあるはずの感触が消えていることに気付き、走りながら左耳を探る。エドウィンから貰った耳飾りが、片方だけ無くなっていた。
たったそれだけで気持ちが萎んでしまったが、まだ一つ残っていることを喜ぼう。リアは右耳の大きな飾りに指先を押し当て、いつかと同じように呼び掛ける。
「石に眠りし守護精霊よ、勇敢なる銀影をここへ──!?」
紫水晶から光が溢れ出した直後、リアの体が大きく右に傾く。
足首に絡み付いた影と、道端でぱっくりと口を開ける漆黒の大穴。ダグラスの術だと悟るや否や、リアは親指の皮膚をナイフで切った。
「──エドウィンに会わせて!」
その声は、全てのしがらみに抗うように切実で。
愛し子の懇願を聞き届けた紫水晶は、閉じゆく闇を抜け、広い大空へと飛んだのだった。