魔女見習いと影の獣
 騎馬の脚を前へ前へと導いていた風が、不意にその勢いを弱める。
 森の奥から漂う焦げ臭さに気付き、落ち着きのない馬の背を大きく摩った。減速するなり鞍から飛び降りたエドウィンは、注意深く辺りを見ながら黒く焼けた草木を辿る。
 ──大巫女が召喚した風の精霊を頼りに馬を走らせていく間、激しい火柱が上がったのは恐らくこの一帯だろう。
 鼻腔を塞ぐような煙たさはあれど、戦場で散々嗅いだ異臭はない。森に暮らす動物はもちろん、人間の肉体が燃やされたわけではなさそうだ。
 考えられる可能性としては、リアかダグラスが行使した火の精霊術だろうか。

「……!」

 エドウィンはふと立ち止まり、足元の土を靴裏で擦る。
 日向と日陰で、明らかに土の質が違う。日に照らされた部分が水分を含んだ瑞々しい土であるのに対し、陰った部分は水どころかあらゆる養分を奪われ、地面がひび割れるに至るまで乾燥していた。

「バザロフの遺跡と同じだ」

 鬱蒼としたバザロフの森は分厚い樹冠によって陽光を奪われ、生気と色彩を失っていた。リアの話では確か、影の精霊の支配が強すぎるせいで四大精霊が近寄れないとのことだったが──ここも同じ状態なのかもしれない。
 だとすれば、やはり近くでモーセルの杖が振るわれたはず。逸る気持ちのままエドウィンが再び歩き出したとき、木々の隙間から小さな光が飛んで来た。
 淡い紫色の輝きを纏う水滴のようなそれは、彼が一度目にしたことのあるものだ。

「紫水晶の……」

 リアに贈った耳飾り──とりわけ宝石の中に好んで住まうという、特殊な守護精霊。彼らが周りをくるくると漂う姿を見て、エドウィンは懐から小さな飾りを取り出す。
 小粒な紫水晶が手のひらで煌めけば、宙を舞うばかりだった精霊が石の中へと吸い込まれていく。
 刹那、水面が弾けるように光が飛び散る。
 それまでの何倍にも輝きを強めた紫水晶がエドウィンの頬を照らせば、高く澄んだ風声と光の筋が生じた。指し示された道を目で追い、彼はすぐさま駆け出したのだった。


 獣道から外れた雑木林をひたすら突き進むと、それは唐突に姿を現した。
 どんよりとくすんだ垂れ葉(しだれは)が囲む、円形に陥没した巨大な穴。
 土砂崩れと言うよりは強烈な爆発が起きただとか、建物が丸ごと取り除かれた跡と表現する方が適切かもしれない。不自然な景色を生み出している大穴を見下ろし、エドウィンは黒々とした斜面に目を凝らした。

「あれは──」

 急勾配を転ばぬよう器用に下りてみれば、石造りのアーチが壁面に埋め込まれていた。びっしりと張り巡らされた(つる)も然ることながら、アーチの奥に広がる一寸先も見えない暗闇が、エドウィンに強い既視感を与える。
 星涙の剣を鞘から引き抜き、眩い光を漆黒の壁に翳してみると──予想通り、微動だにしなかった暗黒が微かに波打った。
 しかしエドウィンが改めて剣を振り抜こうとしたその時、彼の胸元から何かが飛び出す。

「!?」

 反射的に動きを止め、地面に落ちゆく紫電の石──影の霊石を見送る。
 銀のロケットから勝手に抜け出したそれは、着地と同時に小さな獣の姿を取り、その場で毛づくろいをしつつ振り返った。
 こちらに危害を加えるでもなく、ただじっと何かを待っているような姿に、エドウィンは動揺を露わに剣を下ろす。

「……斬るなと言いたいのか」

 光と影。それらは表裏一体であるがゆえに、どちらかを一方的に消滅させることは危険だと、以前ヨアキムが言っていたことを思い出す。
 加えて人間の物差しで測れば厄介ではあるものの、元より彼らは善でも悪でもないのだとリアが言っていた。
 この場は出来る限り星涙の剣を振るわずに、影の壁を抜けたほうが良いのだろうか。しかしそうすることで自分が影の精霊に喰われでもしたら元も子もない。
 どうするべきかと思案したとき、小さな影獣がエドウィンの腕に飛び乗る。ついで紫水晶の耳飾りを尻尾でふわふわと撫でる仕草を見て、彼はハッと息を呑んだ。

 ──精霊の誘惑から逃れた者へ授けられる加護。

 もしもそれが、エドウィンを影獣に変えてしまうだけの代物ではないのなら。
 ひょいとアーチの前に飛び降りた影の精霊を見据え、エドウィンは躊躇いがちに左手を後頭部へ持ち上げる。
 そうして束ねられた藍白の髪をしっかりと握り、手にしていた星涙の剣を結び目に宛がうと、一息に引き切った。
 はらり、いくつかの銀糸が舞い、闇へと溶け込む。


「──……リアを助けたい。どうか、ここを通してくれ。影の精霊よ」


 望みを告げ、長い毛束を軽く放り投げた。
 影獣が跳躍して供物を喰らうと同時に、じっと静止していた漆黒の壁がにわかに動き出す。
 音もなく波紋を広げる闇は、やがてエドウィンの体を静かに飲み込んだのだった。

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