魔女見習いと影の獣
暗影に支配された石室。冷たい敷石から守るように、頭と背中を一挙に掻き抱かれたまま、リアは暫し荒い呼吸を繰り返す。
目の前にある広い胸が同様にして上下するのを見ながら、やがて慌ただしく体を起こした。
「エドウィ──ぬああ!? やっぱり見間違いじゃなかったぁ!」
肩越しにエドウィンの後頭部を覗き込むと、そこにあったはずの藍白の長髪がばっさりと切り落とされている。
恐ろしくすっきりしてしまった後ろ髪を愕然と見詰めるリアに、彼は少しばかり呆けてから小さく噴き出した。
「そこまで驚かなくても」
「驚くわよ! ここにあった髪どこで落としてきたの!?」
「願いの対価として影の精霊にあげました。まぁその……量が分からなかったので、毛束を丸ごと」
「へ」
そこで体が引き戻され、リアはエドウィンの膝にすとんと腰を下ろす。
乱れた黒髪を両手で耳へと掛けられ、正面から顔を確かめられる。ついでに目尻に残っていた涙を優しく拭ったエドウィンは、控えめな微笑にようやく安堵を滲ませた。
「……あなたの元に行きたいと願ったんです。髪でも血でもくれてやるつもりでした」
──エドウィンに会わせて。
影に飲まれる寸前、自分も同じ願いを精霊に告げたことを思い出す。温かい手のひらに頬を包まれたまま、リアはくしゃりと顔を歪めてしまった。
あの暗い洞窟をさまよっていたとき、彼の存在を近くに感じたのは気のせいではなかったのだ。リアを助けるために、危険を承知で影の精霊に肉体の一部を捧げ──見事に従えてしまったのだろう。
礼を述べるより先に再び強く抱き締められ、心臓が次第に落ち着きを取り戻す。自らも手を回して抱き返せば、漫然とした心細さも薄れていった。
代わりに頬が赤らんできたところで、不意にリアは石畳にちょこんと座っている影獣に気付く。
「それ、霊石の……」
周りが暗いおかげでなかなか視認できなかったが、ウサギに似た小さな獣はそこでずっと毛づくろいをしていたようだ。羽毛のような尻尾が振られるのに併せ、ごわごわとした靄が散る。
エドウィンがそっと片手を差し出してやると、影獣は躊躇なく寄って来た。
「あっ」
しかしその途中でするりと体がほどけ、靄が銀のロケットへと吸い込まれていく。ほどなくして靄は輪郭を為し、紫電の弾ける黒曜石へと姿を戻したのだった。
「精霊術に応じてくれたのはこの子ね?」
「ええ。後を付いて行ったらリアと会えたので……髪も全部食べていましたし」
「全部……はっ。そうだわ、ここってどこなの? 私、ダグラスに放り込まれたから出口も何も分からなくて」
周囲を見渡そうと背筋を伸ばしたとき、リアの眼前に蛇の彫像がでんと映し出される。ひっくり返りそうになった彼女を、エドウィンが咄嗟に抱き止めた。二人して蛇の彫像を凝視し、ゆっくりと顔を上向けていく。
案の定、それはバザロフの遺跡にあった蛇の柱と同じものだった。この石室は恐らく、ダグラスが言っていた地底の入り口のひとつだろう。
「……さっきね、大きな白蛇の夢を見ていたの。私、ずっとあれは悪夢だと思ってたんだけど……もしかしたらモーセルにゆかりのある精霊なのかも」
「白蛇が、ですか?」
「ええ。何かを守ってるみたいだった」
イヴァンの話では、モーセルの杖を遺跡の台座に突き刺すことで、影の精霊の封印が完全に解かれるのだったか。あの暗い洞窟──影の神域に白蛇が居座っているのは、封印が破られないようにするためとも考えられる。
しかし精霊の愛し子であるリアが梁の向こうに入ってしまえば、力を得た影が溢れ出す可能性は無きにしも非ず。ダグラスはそれを見越して、リアをあそこに放り込んだのだろう。
そうすることで影の精霊を解放し、亡き母ヘルガの蘇生を成功させるつもりだった。
リアはきゅっと唇を噛むと、もたつきながら立ち上がる。
「ダグラスを止めなきゃ。あいつ、私のお母さんを蘇らせるつもりなのよ」
「……! リア」
はっと息を呑んだエドウィンが、思わずといった具合に手を引っ張る。
「聞いたのですか。……ダグラスが何者なのか」
ためらいがちな問いに、リアは頷いた。その後で苦笑を浮かべると、気遣うような目をした彼の手を強く握り返す。
「聞いたわ。でも関係ない。禁忌に触れようとする人間は、誰であろうと看過しちゃいけないの」
精霊は日々の暮らしに寄り添うもの。決して人を害すための力でもなければ、人を神にする力でもない。
世界の理を体現する精霊という存在。彼らと共に生きることを選んだ以上、エルヴァスティの精霊術師は自らが定めた掟に背いてはならないのだ。
──死者は決して蘇らない。
つまりは、ただそれだけのことだった。
「大丈夫。私にはもう家族がいるし……エドウィンもいるもの」
最後ははにかみながら告げれば、不意を衝かれた菫色の瞳が瞬き、やがて穏やかに細められる。
繋いだ手により一層の力を込めたとき、リアの耳に微かな音が届いた。耳元で内緒話をされているかのような、密やかな吐息が。
「リア、見てください」
エドウィンの静かな声に促されて視線を上げてみると、暗闇の向こうで紫電が弾けた。それを皮切りに視界の至る所で閃光が走り、無数の影獣が床も壁も関係なしに駆けていく姿が映し出される。
こちらには目もくれずにすり抜ける影を一瞥し、リアはエドウィンと顔を見合わせた。緊張気味に頷いた二人は、流れゆく影の後を追いかけたのだった。
目の前にある広い胸が同様にして上下するのを見ながら、やがて慌ただしく体を起こした。
「エドウィ──ぬああ!? やっぱり見間違いじゃなかったぁ!」
肩越しにエドウィンの後頭部を覗き込むと、そこにあったはずの藍白の長髪がばっさりと切り落とされている。
恐ろしくすっきりしてしまった後ろ髪を愕然と見詰めるリアに、彼は少しばかり呆けてから小さく噴き出した。
「そこまで驚かなくても」
「驚くわよ! ここにあった髪どこで落としてきたの!?」
「願いの対価として影の精霊にあげました。まぁその……量が分からなかったので、毛束を丸ごと」
「へ」
そこで体が引き戻され、リアはエドウィンの膝にすとんと腰を下ろす。
乱れた黒髪を両手で耳へと掛けられ、正面から顔を確かめられる。ついでに目尻に残っていた涙を優しく拭ったエドウィンは、控えめな微笑にようやく安堵を滲ませた。
「……あなたの元に行きたいと願ったんです。髪でも血でもくれてやるつもりでした」
──エドウィンに会わせて。
影に飲まれる寸前、自分も同じ願いを精霊に告げたことを思い出す。温かい手のひらに頬を包まれたまま、リアはくしゃりと顔を歪めてしまった。
あの暗い洞窟をさまよっていたとき、彼の存在を近くに感じたのは気のせいではなかったのだ。リアを助けるために、危険を承知で影の精霊に肉体の一部を捧げ──見事に従えてしまったのだろう。
礼を述べるより先に再び強く抱き締められ、心臓が次第に落ち着きを取り戻す。自らも手を回して抱き返せば、漫然とした心細さも薄れていった。
代わりに頬が赤らんできたところで、不意にリアは石畳にちょこんと座っている影獣に気付く。
「それ、霊石の……」
周りが暗いおかげでなかなか視認できなかったが、ウサギに似た小さな獣はそこでずっと毛づくろいをしていたようだ。羽毛のような尻尾が振られるのに併せ、ごわごわとした靄が散る。
エドウィンがそっと片手を差し出してやると、影獣は躊躇なく寄って来た。
「あっ」
しかしその途中でするりと体がほどけ、靄が銀のロケットへと吸い込まれていく。ほどなくして靄は輪郭を為し、紫電の弾ける黒曜石へと姿を戻したのだった。
「精霊術に応じてくれたのはこの子ね?」
「ええ。後を付いて行ったらリアと会えたので……髪も全部食べていましたし」
「全部……はっ。そうだわ、ここってどこなの? 私、ダグラスに放り込まれたから出口も何も分からなくて」
周囲を見渡そうと背筋を伸ばしたとき、リアの眼前に蛇の彫像がでんと映し出される。ひっくり返りそうになった彼女を、エドウィンが咄嗟に抱き止めた。二人して蛇の彫像を凝視し、ゆっくりと顔を上向けていく。
案の定、それはバザロフの遺跡にあった蛇の柱と同じものだった。この石室は恐らく、ダグラスが言っていた地底の入り口のひとつだろう。
「……さっきね、大きな白蛇の夢を見ていたの。私、ずっとあれは悪夢だと思ってたんだけど……もしかしたらモーセルにゆかりのある精霊なのかも」
「白蛇が、ですか?」
「ええ。何かを守ってるみたいだった」
イヴァンの話では、モーセルの杖を遺跡の台座に突き刺すことで、影の精霊の封印が完全に解かれるのだったか。あの暗い洞窟──影の神域に白蛇が居座っているのは、封印が破られないようにするためとも考えられる。
しかし精霊の愛し子であるリアが梁の向こうに入ってしまえば、力を得た影が溢れ出す可能性は無きにしも非ず。ダグラスはそれを見越して、リアをあそこに放り込んだのだろう。
そうすることで影の精霊を解放し、亡き母ヘルガの蘇生を成功させるつもりだった。
リアはきゅっと唇を噛むと、もたつきながら立ち上がる。
「ダグラスを止めなきゃ。あいつ、私のお母さんを蘇らせるつもりなのよ」
「……! リア」
はっと息を呑んだエドウィンが、思わずといった具合に手を引っ張る。
「聞いたのですか。……ダグラスが何者なのか」
ためらいがちな問いに、リアは頷いた。その後で苦笑を浮かべると、気遣うような目をした彼の手を強く握り返す。
「聞いたわ。でも関係ない。禁忌に触れようとする人間は、誰であろうと看過しちゃいけないの」
精霊は日々の暮らしに寄り添うもの。決して人を害すための力でもなければ、人を神にする力でもない。
世界の理を体現する精霊という存在。彼らと共に生きることを選んだ以上、エルヴァスティの精霊術師は自らが定めた掟に背いてはならないのだ。
──死者は決して蘇らない。
つまりは、ただそれだけのことだった。
「大丈夫。私にはもう家族がいるし……エドウィンもいるもの」
最後ははにかみながら告げれば、不意を衝かれた菫色の瞳が瞬き、やがて穏やかに細められる。
繋いだ手により一層の力を込めたとき、リアの耳に微かな音が届いた。耳元で内緒話をされているかのような、密やかな吐息が。
「リア、見てください」
エドウィンの静かな声に促されて視線を上げてみると、暗闇の向こうで紫電が弾けた。それを皮切りに視界の至る所で閃光が走り、無数の影獣が床も壁も関係なしに駆けていく姿が映し出される。
こちらには目もくれずにすり抜ける影を一瞥し、リアはエドウィンと顔を見合わせた。緊張気味に頷いた二人は、流れゆく影の後を追いかけたのだった。